天正8年(1580)8月25日、京に滞在する織田信長はとある書状を発布します。
それは、織田家筆頭家老、佐久間信盛に対する19か条の折檻状でした。この書状は原本こそ残っていないものの信長公記では「信長自筆」であったものを強調しており、それだけ家臣の間でも話題になっていたことが想起されます。まとめるとだいたいこんな感じ。
・石山合戦では持久戦に徹していたずらに時間と労力を費やし5年間なんの成果もあげなかった
・池田恒興や柴田勝家のような少禄の身でも手柄をあげているのに、言い訳ばかりで怠慢ばかりしている
・水野信元死後、水野旧臣を雇用したり新たに家臣を増やすこともせず、懐を肥やすばかりだ。このような仕打ちは言語道断である
・刀根坂の戦いにおいて自分が出陣しない正当性を主張し、信長の面目を失わせた
・三方ヶ原の戦いにおいて家康どころか平手汎秀すら見殺しにして撤退した
・あと、お前の息子はクソ
・30年間奉公して、信盛の活躍は比類なしといわれた働きは一度もない
・このようなことになったからには、一兵卒となって大軍相手に戦い武功をあげるか討死するしかない。それをする勇気もなければ高野山にでも隠遁して許しを請うのが当然であろう
おお・・・なんというパワハラ文章。筆頭家老として30年務めてきた家臣にすらこの仕打ちと、少し前までは織田信長の冷酷さを語るエピソードとして取り上げられることが多かったですが、よくよく考えれば上昇志向の多い織田家臣団において何の武功もあげずふんぞり返っている中間管理職というのは周囲からもさぞヘイトを買っていたのかもしれません。(ほかの織田家臣らが誰も擁護しなかったあたりお察し)