【おんjまとめ】ワイにマイナーな戦国武将を教えるスレ 2020年08月29日 カテゴリ:歴史系(戦国)小ネタ mixiチェック 1: 名無しさん@おーぷん 20/05/23(土)19:17:54 ID:PsI 最近大河ドラマ見初めて興味持ったできたら簡単なエピソードも教えてほしいです 引用元: ・ワイにマイナーな戦国武将を教えるスレ 【【おんjまとめ】ワイにマイナーな戦国武将を教えるスレ】の続きを読む タグ :#おんj#足利成氏#蒲生氏郷#志村光安#山中鹿之助#赤井直正#赤座直保#細川政元#神代勝利
朝倉義景 戦国に嫌われた男 2020年02月20日 カテゴリ:浅井家・朝倉家麒麟がくる mixiチェック 祝!大河出演 【朝倉義景 戦国に嫌われた男】の続きを読む タグ :#朝倉家#織田信長#信長の忍び#センゴク#足利家#朝倉義景#朝倉宗滴#浅井長政#羽柴秀吉#赤座直保
朽木元綱 その時歴史を動かしてしまった男 2017年11月22日 カテゴリ:浅井家・朝倉家 mixiチェック 関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の裏切りによって東軍が勝利した・・・。 歴史の一般的な通説だが、実際にはその麓に駐留していた脇坂・朽木・赤座・小川の4部隊の寝返りによる所が大きかった。小川祐忠もそうなのだが、この朽木元綱という男は三英傑が戦った天下分け目の歴史上イベントにおいて、重要なファクターを果たした人物である。本人の才覚があったわけではないが、本人の行動が結果的に勝利に貢献したという人物である。 朽木の谷のモトツナ 滋賀県の西部に朽木村という2000人ほどの村があったが(現在は平成の大合併で高島市)、朽木氏は代々この地を治めていた。盆地地域でもある朽木谷は若狭と京を結ぶ若狭街道の中継地点として、石高以上に発展した町であった。「おんな城主直虎」でいう気賀みたいなものだろう。石高も1万~2万と井伊谷と同じくらい。また、室町幕府の将軍が度々政変によって都を追われると、歴代の将軍は朽木谷を緊急用の脱出経路として利用するなど、幕府とのパイプラインも強かった。父・晴綱の名は12代足利将軍義晴から一字賜ったものであるほか、1553年から1558年まで三好長慶との戦いに敗れた義輝が朽木谷に滞在している。 元綱は1550年、父の戦死により2歳で家督を継いだ。当時の畿内は三好家の暗躍により複雑怪奇・混沌を極めており、東では京極・六角家を下剋上で独立した浅井長政の躍進が著しかった。若干18歳の元綱では浅井家の軍事的圧力に勝てるはずもなく降伏し従属(とはいえ、三好三人衆と足利義昭との戦いである本国時の変では、義昭への援軍として元綱が出兵しているので水面下での幕府とのつながりはあったと考えられる)。 ノブナガが来た! 元綱最初のターニングポイントは信長の金ヶ崎撤退戦である。朝倉攻めを行った信長は浅井長政の裏切りに遭い、窮地に陥った戦いである。京への撤退ルートは2つあったが、湖岸を通る高島ルートは浅井勢力下かつ比叡山の僧兵が駐留する場所であったため通過することができず内陸の朽木谷を通る必要があった。 今年、朝倉家から朽木元綱へ送られた書状が見つかっている。 朝倉義景 「反信長」連携図る書状発見 https://mainichi.jp/articles/20170428/k00/00e/040/226000c?ck=1 書状は1573年だが、この時期まで朝倉義景は朽木元綱を通じて幕府とコネクションを持っていたと考えると、金ヶ崎の戦いにおいて元綱は浅井・朝倉陣営だったと考えられる。 敵国の陣地を通るために信長軍は元綱を調略する必要があった。そこで従軍していた松永久秀の交渉によって信長は京に戻ることができた。もし元綱が撤退を是としなかったら信長はおろか明智光秀や豊臣秀吉といった後の超有名な英傑たちの活躍も無かっただろう(もっとも元綱は撤退を許可する以外の選択肢は無かったと思うが) さて、九死に一生を救った元綱は織田家の中で重臣格として活躍したかというと 1579年 高島郡の代官を罷免 あんまり重宝されていなかった。保守的な性格にあまりぱっとしない内政センス(優秀なエピソードがない)信長と対立する義昭との繋がりから信長に嫌われていたのかもしれない。 信長が本能寺で倒れ、秀吉が天下をとると元綱は2万石の大名として名を連ねた。が、やっぱりぱっとしない。とはいえ佐々木源氏の血を引く名門であることから豊臣姓を下賜されている。 あるいは裏切りという名の4人衆 朽木家が再び歴史の舞台に立つのは関ヶ原の戦いである。前哨戦において元綱は他の近江衆(京極高次・新庄直頼・赤座直保など)と共に大谷吉継の北陸方面軍に従軍、その後石田三成と合流し関ヶ原へと兵を進める。元綱は脇坂や小川と共に小早川隊の裏切りに対する抑えとして大谷隊の前方に配置された。 が、戦いを前に三成挙兵時に京にいたばっかりに西軍に入れられた大名たちは察する。 「この戦い、どう考えても東軍が勝つ」 事前に徳川と内通していた吉川広家や元々石田三成を嫌っていた小早川秀秋、東軍として出陣するつもりが集合場所を間違えたのか西軍に入れられてしまった長宗我部盛親など東軍の兵10万に対して西軍の実質的な兵力は4万~5万ほど、しかも毛利秀元15000は吉川広家に阻まれて動けない。 このままでは西軍の敗北によって改易の可能性が!元綱は開戦前に脇坂安治の陣を訪れ共に東軍に寝返るよう画策する。安治は東軍の藤堂高虎とコネクションを持っており、既に高虎を通じて東軍に裏切る算段をつけていた。開戦後、元綱は脇坂隊と共に軍を動かしながらできるだけ東軍と交戦状態にならないよう日和見を続ける。そして小早川秀秋が松尾山を下ると同時に部隊を翻し大谷隊を攻撃した。 幸運にも自身より大きな兵力を有していた小川祐忠の裏切り(祐忠も同じく東軍へ裏切るタイミングを伺っていたと考えられる)さらに赤座直保の部隊が三部隊につられる形となったため5000の兵がわずか数百の大谷隊を攻め、大谷隊は壊滅。吉継は自刃する。これが決定打となり西軍は総崩れとなり東軍の勝利に終わった。 寄合の彼方に 元綱は2回歴史の変わり目に立ち会い三英傑に与する働きをした。この活躍に家康は元綱に大きく感謝し、領地を加増 しなかった。 あらかじめ内通工作をしていた脇坂安治はともかく、元綱は土壇場で裏切ったと見なされ改易の危機に立たされてしまう。しかし、改易されずに済んだのは朽木家が名族であることだった。家康は鎌倉以降続く名門を改易するようなことはせず、むしろ血が途絶えていた所に養子を入れて復興させようと奔走するほどの名門好きである。この時代佐々木源氏のうち最後の正統な子孫だった朽木家を潰すようなことはせず幕臣時代の領地のみ認め朽木谷9500石の交代寄合として存続した。 朽木家にとってはまさかの悲劇だったが、1万石を超えると参勤交代や普請活動といった大名としての負担が発生するため5000石以上、1万石未満の上級旗本や交代寄合という立場は実は非常においしい。例えば江戸時代7000石の旗本だった真田信尹は5万石程度の大名の暮らしができたというから、朽木家にとって石高ほどダメージは無かったのではないだろうか。一方同じく西軍を裏切った赤座・小川の両家は改易という憂き目に遭う。赤座直保は前田家に仕え、子孫は家老職になるなど栄転するが、小川祐忠は失意のうちに2年後亡くなった。 その後の元綱であるが、子・宣綱と共に幕府から近江街道の整備を命じられ瀬田大橋の修理などを行っている。大坂の陣では永井直勝傘下として従軍し戦闘に巻き込まれることも無かった。宣綱はわずかな家臣を引き連れて大坂方の活躍の物見をするなどしている。完全に野次馬・・・ 1616年、家康の死の年に宣綱に家督を譲り出家。牧斎と号した。1632年、生まれ育った領地の朽木谷で亡くなる。84歳の高齢だった。その後の朽木家は分知や庶家として譜代大名に昇格するなど繁栄した。 朽木を継ぐ者 その後の華々しい子供たちの活躍を少しだけ見てみよう。 宣綱(1582-1662) 元綱の長男。6000石を領有し、朽木宗家は明治維新まで交代寄合を務めた。次男の高通は妻の実家である京極家の養子となり13000石の大名となった。父と同じく80を超えるご高齢だったが、寛文地震の際、屋敷の倒壊の下敷きとなり亡くなる。南無。 友綱(1599-1662) 元綱の次男。宣綱の長男である智綱が生まれた年に産まれた。2000石(後に3000石)を領し宇治抹茶使(将軍が飲用する茶の手配をする仕事)を務めた。宇治抹茶使は「茶壺」とも呼ばれ、非常に位の高い役であったらしく児童歌の「ずいずいずっころばし」に歌われるように大名行列以上の格を持っていたようだ。 稙綱(1605-1660) 元綱の三男。宣綱の次男である高通が生まれた年に産まれた。これ絶対に宣綱の婚約時に元綱も京極家から美人の側室もらってるだろ。幼いころから家光に仕え、家光の小姓頭・書院番頭・若年寄を務めた。分かりやすくいうと家光の側近中の側近である。そのため、譜代大名として最終的に3万石の大名に出世する。子の稙昌からは福知山藩主となり3万2000石の大名として明治維新まで存続した。 三英傑が登場し、歴史的な大イベントに遭遇し、滅亡・改易の危機に遭うもなんだかんだでハッピーエンド・・・ 大河ドラマ「朽木元綱」 あると思います。 死ぬまでに見ることができるだろうか。その前に元綱が主人公の小説を書く人間が現れるのだろうか。 新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い [単行本(ソフトカバー)] 白峰 旬 宮帯出版社 2014-10-10 火螢(ほたる)の城 (PHP文芸文庫) [文庫] 秋月 達郎 PHP研究所 2015-03-09 信長の忍び 4 (ジェッツコミックス) [Kindle版] 重野なおき 白泉社 2013-06-10 タグ :#浅井家#信長の忍び#足利家#朽木元綱#石田三成#朝倉義景#浅井長政#赤座直保#小早川秀秋#大谷吉継