不定期更新 気になった武将や人物について取り上げたりおんj中心にまとめたりします

    タグ:服部半蔵

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    忍者ハットリくん、忍たま乱太郎、甲賀忍法帖、ニンジャスレイヤー・・・などなど忍者は創作物において最も脚色された存在です。その実態は農業もままならない僻地に住んでいたり土地を持たず各地を流浪していた人々が、傭兵・スパイ業を営んで生計を立てており、現代でいうところのワグネルのような存在だったのではないでしょうか。

     

     

    忍者自体は「草」「臥牙」「透破」「犬」「軒猿」など様々な名前で日本各地で活躍していたのですが、その多くはその土地で雇った非正規のごろつき集団。大名からして使い捨ての破壊工作のできる駒程度のものでした。一方で伊賀・甲賀の土豪たちはまとまった集団で地域の大名に仕え長年良好な関係を築いており「ブランド」力を持っていました。

     

     

     

    伊賀という土地は盆地で水はけも悪く農業には適さない場所でした。そんなところでも何とか土地の奪い合いが起きており、小領主や土豪たちはやがて身内の争いから合議制による強い自治共同体へと成長していき、守護大名・仁木氏の影響を受けない独自の惣国支配を行うようになります。特に発言力が強かったのが上忍三家と呼ばれ、服部、百地、藤林家。このうち服部家は服部半蔵正成の父の伊賀を去り、信長時代には藤林長門守長豊(あるいはその子・保正)と百地丹波守がリーダー格であったと言われますが・・・。

     

     



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    藤林長門




    1: それでも動く名無し 2023/05/06(土) 15:22:02.75 ID:3gCE/bq80
    三重って偉人おらんよな

    4: それでも動く名無し 2023/05/06(土) 15:23:21.44 ID:+YaCmIsGa
    忍者忍者アンド忍者

    引用元: ・愛知「織田信長!豊臣秀吉!徳川家康!」静岡「今川義元!」岐阜「あ…明智光秀…」三重で「…」

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    どうする家康、三河編が終わり4月から新章に突入しました。スケジュールでは4月中は金ヶ崎・姉川の戦いを放送するようですが、ここから新キャラクターが一気に増えていきます。明智光秀、足利義昭、浅井長政・・・知名度一線級の人物に加えて、終生家康をサポートした商人・茶屋四郎次郎も登場しました。

     

     

     













    茶屋四郎次郎は京の三豪商の一つに数えられ、歴代の当主が茶屋四郎次郎を名乗っています。過去の家康を主人公とするドラマでは初代・清延の他に三代目の清次などが登場し、別々の役者が演じていたのですが、本作では清延の名前は削除され中村勘九郎しか役者が発表されていません。

     

     

    おそらくは清次の登場する大坂の陣までは描かない予定だからカットしたのかもしれないですね。キャスト発表で大河の最終回がある程度想像できてしまう事実・・・!

     

     

     

    さて、今回は大河の補足もかねて、茶屋四郎次郎の三代について解説していきます。

     

     

     


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    2話より三河-美濃を走破してくる健脚っぷりを見せていた岡村は結局、水野家に仕える忍び役でしたね。徳川サイドである彼が最終回まで脚本に関わってくるかは非常に気になるところです。さて、この菊丸ですが徳川家の忍びということで服部半蔵をモチーフとするのではないかと界隈では考察されています。ただし、伊賀越えで有名な半蔵は2代目にあたります。つまり、この時期の岡村は服部保長をモデルとした人物である可能性が高いです。ということで今回は、元祖・半蔵こと服部保長について解説します。

     

     

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    保長は正真正銘の伊賀流忍者出身で、彼が活躍した時代は服部家も著名な伊賀忍者の一派で、藤林や百地といった他の有力豪族と年がら年中領土争いしておりました。元々伊賀は盆地で開墾できる土地が少なく、しかし水害も頻繁に起こるため居住地、耕作地ともに限られておりました。それゆえに他の地域より農民が武装化しやすい傾向にあり、敵の攻撃に警戒するため諜報力も培われたと考えられています。

     

    しかし、小さな伊賀国内で争っても意味がないと考えた保長は伊賀を出て抜け忍となり仕官先を求め、室町幕府に仕えたと言われています。しかし、幕府は管領らの長年の争いによって弱体化し、ここでも見切りをつけて三河に移動しました。

     

    当時の三河は松平清康が治めており、三河一国を統一する勢いでした。しかし、ここでも清康は家臣に殺害される悲劇が起き、服部家は再び仕官先が衰退する悲劇に巻き込まれてしまいました。その後の動向は分かっていませんが、息子の正成が徳川家の重臣として活躍していることから、保長は主を変えず三河に定住したものと考えられます。





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    講談なので描かれる半蔵の忍者姿は史実として正しくはありません。正成はもっぱら槍の使い手で最前線で戦う武辺者でありました。つまり、忍者業は父親の代で廃業とし、息子は一武将として徳川家康に仕えていたのです。服部半蔵で最も有名な活躍は伊賀越えですね。正成の伊賀越えは半蔵の忍術・・・ではなく、父親時代のコネで伊賀忍者の協力をとりつけることに成功しています。活躍した伊賀国の土豪たちは後に伊賀同心・甲賀同心として幕府に仕え、服部家はその統率役を任されたのです。






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    晩年の家康は、家族殺しを嫌い、家族と仲違いする諸大名には厳しい態度で臨みました。あるいは頼宣ら老年期にできた子供を溺愛しました。そこには信康事件におけるトラウマがあったように思われます。家康の嫡男・信康は徳川家が未だ一勢力でしか無かった時代に起きたある事件に巻き込まれ自刃に追い込まれたのです。


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