天文20年(1551)9月、陶隆房は主君大内義隆に対して謀反を実行。大寧寺の変と呼ばれるこのクーデターは本能寺の変に次ぐ戦国屈指のゲームチェンジャーとして周辺諸国のみならず日本全国に衝撃を与えました。
この事件により、大内家は血脈共に息絶えて・・・と考えてちょっと待て?
・・・大内家もの大大名が一家臣の謀反によって一族息絶えてしまうものなんでしょうか。日本最大のクーデターである本能寺の変でも命を落としたのは信長と嫡男・信忠、そしてその余波で甥の信澄であって、その他兄弟や息子たちは無事でした。
しかし、大寧寺の変では大友家に食客となっていた輝弘を除いて大内家の眷属は義隆のみならずその子供たちも軒並み殺されてしまったのです。
大寧寺の変発生時に生まれていた義隆の子供たちは4人いました。長男の義尊は流石に跡継ぎとして隆房の擁立した大内晴英政権の邪魔者になるということで処刑。
長女の珠光は父・義隆に落ち延びるよう促されますがこれを拒絶して父と共に運命を共にします。次男・亀鶴丸は母が大内家重臣・内藤家の人間だったこともあって、内藤家の長・内藤興盛より助命。しかし、興盛の亡き後、大内家再興の旗印に利用され、結局は防長経略の時に毛利軍によって処刑されてしまいました。
そして、この嫡男・義尊の享年は7歳・・・。弟たちはほとんどが物心つかない幼稚園児ぐらいの子なのです・・・!