不定期更新 気になった武将や人物について取り上げたりおんj中心にまとめたりします

    カテゴリ: 刀剣・武具

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    日本人にとって妖怪は怪異であり娯楽であり、周囲をとりまく自然そのものでした。とはいえ、江戸時代以前の夜は不可思議でともすれば命を落としかねない危険な背世界です。だから、どこどこの武士が妖怪退治をしてくれたという伝承は地域にとって英雄としてもてはやされるもの。

     

     

    有名な妖怪退治の専門家といえば源頼光や藤原秀郷があたりでしょうか。彼らは妖怪全盛の平安時代に活躍した人物です。

     

     

    時代が下り、戦国時代にも妖怪退治の伝承のある武将がいます。今回は長宗我部家臣で小備後と呼ばれた江村親家について解説します。

     




    江村親家


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    戦国時代最強の武将は誰でしょうか?本多忠勝?立花宗茂?武将の数だけ逸話と多くのファンを抱えているでしょうから一人決めるのは難しいでしょう。しかし、日本史最強の武将となるとどうなるか?

     

     

    これは結構候補を絞れるんじゃないでしょうか?そしてそのうちの一人には源為朝が挙げられます。平安時代末、源頼朝が登場するちょっと前の時代に活躍した人物です。

     

     


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    「三回同じ間違いをした部下は斬る」なんて豪語するほどに厳しい上司であった細川忠興。彼が登場するエピソードには他人本人問わず流血沙汰になる血なまぐさいエピソードが多く、彼の愛刀「歌仙兼定」は手討ちにした部下の数が36人いたことから、三十六歌仙になぞらえて付けたと伝わっています。




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    ただ、この血なまぐさいエピソード、実際には松永久秀の爆死、足利義輝の討ち死にと同じく創作であるようです。だいたい36人も部下を殺した日には、信頼を失って部下がみんな逃げ出してしまいます。パワハラ上司で有名な戦国武将は他にも織田信長や井伊直政が有名で、どちらも粗相をした部下や雑兵を切り捨てる苛烈な性格をしています。

     

     

    しかし、忠興はというと若い頃は確かに荒っぽいものの3040代と年をとるにつれ、教養人としての性格が強くなり、「角の部分を丸くはくように政をせよ(あまり細まかく支持して現場を締め付けてはいけない)」なんて将軍秀忠にアドバイスするくらいには丸くなっていきました。

     

     

    だがしかし、まめな性格に関しては如何ともしがたく、例えば息子に焼き魚の調理について熱く手紙で語るなどどうしても譲れない部分もあったようです。それで手討ちにするということはありませんでしたが、やはり忠興の性格に辟易していた部分はありました。

     




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    50代半ばにして忠興は病を患い、養生のため隠居することにしました。居城の小倉城から隠居先の中津城に譲り出家します。最初の方は公家に嫁いだ娘に「頭を丸めて鏡で自分の顔を見たら幽斎じいさんにそっくりで吃驚したわい、歌道は全くしらぬがの!」と冗談口を叩く手紙を出すなど、機嫌よく暮らしていていました。が、現役時代の部下たちが一向に挨拶にやってこないことに忠興は腹が立ってきました。

     

     

    忠興は息子・忠利に対してまたもや手紙を書き「これはいったいどうなっとるんだ!?」とクレームじみた手紙を書いたのです。こんな手紙を貰った忠利の困惑っぷりが目に浮かびますが、そこは何かと口うるさい父と、「気遣いのできない侍女は手討ちものですよ」なんて恐ろしいこと言っていた母に持つ忠利、家臣たちに「大殿が隠居したからといってほっとして挨拶に行かない不届き者はどこのどいつだ!」と叱り飛ばしました。

     

     

    しばらくし、中津城へはひっきりなしに家臣たちが訪ねにやってきます。来客対応の多さに今度は忠興が閉口し「用も無いのに訪ねてくるな!いや、これは私のわがままで言ったことだ、すまなかった」と忠利に手紙に反省の手紙を送ったそうな。

     



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    このように隠居時にちょっとしたトラブルがあったものの「殺される!」と部下が恐れたことはあっても実際にひと悶着あって部下殺すまでには至らなかったんじゃないかなと思います。

     

     

     

    ただ、兼定のほかにもう一つ、忠興には所有していた刀があります。

     

     

     

    その名も「晴思剣」。これも伝説止まりなため本当かどうかは分かりませんが、信長から貰ったこの刀で茶坊主を斬った(敵のスパイだったとも)ことから「思いが晴れた」感情がこの刀の名前の由来となったのです。

     


     

     

    嘘か真かはともかくこっちの方は何か現実的で本当に殺してそう・・・。前田利家も若い頃は茶坊主殺して思いを晴らしたりしていますし、なおそれが原因で無職になり嫁からの心象はしばらく土砂降り模様なのでした。






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    江戸時代には「御試御用」と呼ばれる仕事がありました。これは将軍用の刀剣をあらかじめ試し斬りする役職のことです。日本刀は一本一本が職人手作りの品で現代のように大量生産によるロット管理なんて概念はありません。いくら刀の見栄えがよくても、実用性が無ければ意味が無いので、献上前には必ず試し斬りを行いました。


     

    現代の試し切りは竹や畳、段ボールなどを使いますが、戦国時代や江戸時代には必ず人体を用いました。多くは処刑した罪人の死体でしたが、生きている罪人を拘束して斬る「生き胴」のケースも少なからずありました。試し斬りの技術「据物」と呼ばれ、穢多と同じく忌み嫌われましたが、武士の名誉職でもあり、厳粛な儀式として執り行われました。時代を経るにつれ据物は習慣化し、徳川吉宗の代に「試し斬りは山田浅右衛門の役目」とされ、一家相伝の技術となったのです。

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    結城晴朝


    今年4月に、天下三名槍の一つにして東京大空襲にて焼失した伝説の名槍「御手杵」の写しが公開されました。「写し」というのはある日本刀や槍の本物を真似た作品であり、誰が作るかによって本物以上の価値を持つこともあります。



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    御手杵は関東の戦国大名・結城家に伝わるもので、全長3.8m、刃の長さは1.4mという他の槍とは規格外の大きさを持っており、同家の象徴的な存在でした。御手杵といえば、所有者を結城秀康が第一にイメージしますが、製作を命じたのは意外にも歴史は浅く、先代の結城晴朝によるものでした。

     

    結城晴朝は、佐竹義重や太田資正と並ぶ北関東の雄です。しかし彼らに比べると武勇面で劣る謀略家というイメージがあります。そこで今回は、結城一族も含めつつ、晴朝の活躍について解説していきます。

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