永禄3年(1560)8月、今川氏真は苦悩の決断を迫られていました。
さる3か月前、桶狭間の戦いで父・義元を喪い、多くの近習も戦死してしまいます。伊勢湾、そして三河辺境の利権を巡って織田家と雌雄を決する予定だったのが、大敗を喫したことで三河中の動揺をかえって招いてしまっていました。しかし、8月には越後より関東管領を名乗った長尾景虎が妻の実家である北条家を攻撃。居城・小田原城への籠城戦を強いられていたのです。
氏真は北条家(妻の実家である上に、そもそも北条家とは100年の関係を持っている)を救うため援軍を関東方に割くことを決断。しかし、三河への派兵を望めないと考えた家康は単独で織田信長と結び、今度は今川家が孤立する結果となってしまいました。その後の氏真の転落人生はよく知るところです。
このように、「やるべきことをやってはいるが、天命や時勢に恵まれなかったり、本人の資質が伴っていなかったりして家を衰退させてしまう」人物は何も氏真だけではありません。この時代の元名家はそんな人物が多いです。氏真は家名を残すことに成功しましたが、実は長尾景虎侵攻の黒幕である上杉憲政も似たような立場の人間でした。彼もまた①名族に生まれながら②時勢に恵まれず③やるべきことをやったものの④結果としては家を衰退させた、人物であります。もっとも氏真以上に彼の家は滅亡してしまいましたが・・・。
今回は山内上杉家最後の当主・上杉憲政について解説します。