凡庸な二代目。



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徳川秀忠に対する一般的な認識だが、実際は江戸幕府250年の体制を盤石なものにし、家康時代から続く戦国時代の気風を一新し、天下泰平を成し遂げた名君である。









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①家康の後継者は誰?



1590年、伏見城。家康は思い悩んでいた。自身の後継者問題である。
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大名の跡継ぎは一般的に正室の長男が嫡男として次期当主になるのが決まりであった。しかし家康は10年以上前に「信康事件」によって正室・瀬名と嫡男・信康を亡くしている。そこで跡継ぎは次男より下の誰かになるのだが・・・当時は3人の後継者候補がいた。



次男・秀康

瀬名の侍女・お万の方が家康のお手つきとなって生まれた子供。家康の子供の中では最も猛勇であり、井伊直政や本多忠勝ら家臣団から期待されていた。


四男・忠吉

秀忠と1歳違いの同母弟。才色兼備の美男子で諸大名が口をそろえて世継ぎにふさわしいと認めた勇将。




とそれぞれが、戦国武将らしい気風・器量を持ち合わせていた。が、秀忠は「武勇や知略は乏しく温厚な人物」と評価され、武将としては当時の評価は非常に低かった。

だが、家康はあえて秀忠を後継者に指名した。それは家康は来たるべき後継者に「守成の当主」を望んでおり、父や年配の家臣の考えや思想を律儀に守り、実直な性格である秀忠がふさわしいと考えたのである。中国は「守成は創業より難しい」という諺があり、勇猛であっても実直でない2人の兄弟では万が一、自らの事業を引き継げないという不安があったのだろう。事実、2人は父・家康よりも先に病死している。もし彼らが家康の跡を継げば、夭逝によって政権が混乱し、室町幕府2代将軍・足利義栓の如く、かえって弱い2代目となってしまっていたかもしれない。


②上田城の戦い、若き2代目の失敗



慶長5年、関ヶ原の戦いでは家康は自身の兵を3つの軍団に分けて西軍に対峙した。東海道を進む家康本隊。中山道を進む秀忠軍、関東の抑えとして駐留した結城秀康軍である。

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秀忠には家康が持っている半分近い兵である38000の兵力が与えられ、その他徳川四天王の一人榊原康政や、謀臣・本多正信ら歴戦の将が付けられた。

ここでトラブルが発生する。中山道を通る途中・信濃国にて真田昌幸の守る上田城に接近したのだ。上田城はかつて徳川軍が攻め大敗した痛い経験があった。

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はじめ徳川軍は圧倒的兵力を持って上田城を降伏・無血開城しようと使者を立てたが、昌幸はのらりくらりと降伏を延期させ、さらに徳川軍に挑発的な態度をとってくるではないか。


このまま攻めても15年前の二の舞である


榊原康政ら首脳陣は、上田城を無視し素通りしろと献策したが、武将としてのプライドを傷つけられた秀忠は総攻めを命令する。秀忠が上田城を攻撃したのは、宿老たちに「若様は戦下手だ」と馬鹿にされており上田城で武功を立て見返したいという思い、自軍には昌幸の嫡男である信之がいたため信之のスパイ活動を阻止する必要があった、秀忠軍は比較的若い兵で構成されており秀忠が戦を避けよと命令しても昌幸の挑発にのってしまった(事実、秀忠の側近には父を昌幸に殺された中山照守らがいる)と様々な理由があった。

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結果からいうと秀忠軍は大敗した。真田信繁らの奇襲戦法によって少なくない被害が出たのは事実である。
また、家康本隊から「9月9日までに美濃に着陣せよ」という書状が到着、秀忠はあわてて兵をまとめると上田城を後にして、中山道を進んだが天下分け目の大戦に遅参する失態を犯してしまう。


秀忠が到着したのは関ヶ原本戦の5日後、戦勝祝いといって合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが「気分がすぐれない」と家康は面会を謝絶。諸将に恥を晒した父からの答えであった。この危機を家臣らが仲介し


「中山道は悪天候であり使者の到着が遅れたのです。若殿の失態を責める前に事態の真相を知りもせず斬り捨てるのは主君の器にはありませんぞ。」


という康政の諫言によって、秀忠は家康と面会することができた。


結果論であるが秀忠軍の関ヶ原遅参の最大の原因は、戦の日程が前倒しになったためである。東軍の福島正則は家康軍先鋒隊として西軍の守る岐阜城を予定より1週間以上早く落とし、東軍・西軍共に兵を臨機応変にかき集めなければいけない事態に陥っていた。また、家康・秀忠ら2人の大将が同時に戦場にいては敗戦時そのまま滅亡のリスクを抱えることになる。そのため秀忠の遅刻自体そのものが悪というわけではなかった。が、秀忠は必要も無く上田城を攻めそして城を落とせず負けてきましたでは外聞が悪い。また東軍で活躍したのは家康本隊や家康家臣団ではなく、黒田長政や福島正則といった秀吉子飼いの将である。結果的に幕府が成立し家康が天下人となった後でも秀吉と縁のある勢力を完全に排除することができず、家康に一抹の不安材料を与えたのは事実である。

上田城の敗戦を秀忠軍についた家臣はしきりに秀忠を庇い、大将を止められなかった自らに責任があると家康に申し出た。家康も大きく彼らを責めるようなことはせず(一部減封や勘気処分になった者はいる)、秀忠の失敗も不問としたが、武将の評価を覆すことができなかった秀忠のプライドは再び傷つけられることになる。

しかし、唯一秀忠の武功を褒め称えた人物がいた。




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仙石権兵衛秀久である。
戸次川の戦いで大敗し、秀吉の怒りを買ったことで改易された経験のある秀久。その後は家康の与力として参加し再び大名に返り咲くことができた。秀久も秀忠軍に参加しており、真田軍に対して殿を務め秀忠軍の被害拡大を防いだ。秀久は家康の前に進み出て

「確かに決戦に秀忠様が遅参したのは事実です。しかし、西軍の士気が高く、戦が拮抗したのであれば、秀忠の跡から到着したのは西軍の士気を挫いたことでしょう。それに上田城においても秀忠様の指揮は何一つ間違っていませんでした。「小事に拘って大事を忘るるは大志のなさざる所」ですぞ」

と取り成すとともに、秀忠の武功を評価した。この発言に秀忠は大変感激し、秀忠が将軍になってからも幕府は仙石家を重宝し「我が戦の師は仙石殿である」と度々語ったという。


③将軍就任


慶長5年(1605)、27歳の秀忠は征夷大将軍に就任する。家康は建前上隠居し大御所と呼ばれるようになり秀忠は江戸にて家康から届けられた助言をもとに政治を執った。主に秀忠は天領支配や譜代大名や旗本の人事を担当し、家康は外様大名の監視や外交を行った。

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戦国時代最後の大戦となった大坂の陣。家康の巧みな策略によって豊臣家が滅ぼされたと一般的には考えられているが、実は豊臣家の滅亡を望んでいたのは家康ではなく秀忠が主導となって戦を指揮したという説が近年主流になっている。かつての主家である豊臣家には刃を向けられず、保守的で豊臣家の無力化(伊勢や上総に転封)だけを家康は考えていたようだが、秀忠は父の事業最終段階として、諸大名を統制し幕府に刃向うものは容赦なく叩き潰すという権威ある大将をアピールしようとしたのだ。

総大将として参戦した秀忠は豊臣家臣・真田信繁や大野治房の奇襲に脅かされ自身が槍をとる場面もあったが、最終的には淀君と豊臣秀頼、またその側近ら首脳陣を自害に追い込み豊臣家滅亡をなし得た。ここに応仁の乱以降続いた戦国時代は終わりを告げたのである。

元和2年(1616)、家康が死去に伴い、将軍親政を開始。しかし福島正則や加藤家ら豊臣恩顧の大名は生き残っており、諸大名の統制という家康から残された宿題に取り組んでいくことになる。



④天下泰平の時代を築き上げた名君



守成の時代に世を乱す乱暴者はいらない。

これが幕府の出した結論だった。武家諸法度、禁中並公家諸法度を制定し、大名や天皇・公家の統制を図った。また幕府中枢を酒井忠世m土井利勝ら自身の側近で固め、自ら主導で政治を執り行った。

秀忠最大の功績は、危険視されていながら家康時代には潰すことができなかった大大名への対処だ。

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関ヶ原では東軍としてと戦ったが、大坂の陣では豊臣方に兵糧を送るなどして豊臣に与していた福島正則。秀忠は福島家を城の無断修復を武家諸法度違反として訴え、その弁明に不足があると判断すると、秀忠は牧野忠成(上田城の戦いで秀忠軍の前線指揮を担当した牧野康成の子)を派遣して、福島家を改易させる。


幕府にとって目の上の瘤だった福島家を無力化するとともに、武家諸法度を正式に運用することで、諸大名に「脅しではない」と緊張感を持たせたのだ。他にも秀忠は幕僚で権勢を振るっていた本多正純を改易させ、譜代大名であっても問題のある者には容赦なく改易・減法と処罰した。一方で立花宗茂・丹羽長重ら信用に足るものは外様であっても重用し、伊達政宗ら不安視する大名に対してはしきりに遭っては友好を結びつつ監視を行った。

秀忠本人は生涯を通して温厚な人物であり、正妻にも頭の上がらなかった恐妻家であったが、いざ政務となると冷酷な独裁者として自身の役割を実直にロールプレイしたのだ。


寛永9年(1632)1月薨去。隠居して大御所となっても家光の政務の面倒を見て余念が無かったとされる。また遺骨には複数の銃で撃たれた跡が残っており、指揮官としても有能であり多少の怪我では死なないタフネスを持ち合わせていた考えられる。為政者として家康以上に能力を如何なく発揮した2代目将軍は守成の時代を切り抜けたのである。



恋 (通常盤)
星野 源
ビクターエンタテインメント
2016-10-05





近世武家社会と諸法度
進士 慶幹
学陽書房
1989-09