2月14日って何の日だろう・・・?







































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宇喜多直家の命日です!
宇喜多直家と言えば

・暗殺おじさん
・弟が帷子をつけるほど恐れる男
・茶に毒を仕込む男
・岡山の県北の糞
・娘ファンネル
・ケネディ暗殺ばりの狙撃戦法

と、なんでもありの方法で備洲三国を手に入れた男です。
戦国三大梟雄に数えられる人物ですが、有名人シリーズ第三弾・宇喜多直家について解説します。
登場人物


宇喜多直家

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おじいちゃんは備前の大名浦上家の実力者
幼い頃に一家離散の憂き目に遭う
戦はそこまで強くないが知恵がある

宇喜多忠家

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よくできた弟
直家を恐れており、暗殺されないよう常に経帷子をつけていたらしい





下剋上の始まり

宇喜多家は浦上家の家老格として権勢をふるっていたが、直家が幼いころの記録は無い。
それは直家が3歳のころ、祖父興家が突如死亡する。これは家中の政敵だった中山信正・島村盛実に暗殺されたからだと言われる。

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浦上家を追放され父と共に放浪の人生を送った直家だが、直家の母が宗景の側室となることで罪を許され帰参する。家中でも形見の狭い思いをしていること、母をNTRれた屈辱、これらは直家の青春時代に暗い影を落とし、下剋上によって浦上家を支配を目論むようになっていく。

浦上宗景自体もなかなかの実力者で兄を下剋上によって打ち破り、謀権術数を用いて数十万石の領地を支配した実力者である。宗景を破ることはそう簡単では無く、宗景の下で忠実な家臣として活躍することで彼の戦略を学びとっていく。

帰参した直家は仇敵である中山信正や島村信実に対して謀反の疑いをかけ謀殺している。直家の正妻は信正の娘であり岳父の関係だったのだが、政治の世界に肉親の情は無用である。

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さらに直家は最所元常、松田元賢、金光宗高ら浦上家内の政敵や備中の実力者を次々と暗殺し浦上家の実力者としてのし上がっていく。その方法は手段を問わない方法で、あえて娘を嫁がせ油断させた所を宴の席で毒を仕込み暗殺するという陰湿な方法である。ちなみに細川藤孝や黒田官兵衛も同様な方法を用いている。そして一時的ではあるが小寺家臣時代の黒田官兵衛と宇喜多直家は一時期盟友関係にあった。官兵衛の毒殺って、あっ・・・



浦上家との戦い

備中の大名だった三村家は浦上家単独では打ち破ることの出来ない強敵であった。三村家は毛利家と同盟関係にあり当主の家親は毛利元就をして「家親殿一人いれば備中は安心」と言わしめた実力者である。

三村家は備中統一を進める一方で美作に侵攻し幾たびか宇喜多直家を打ち破る。戦で勝てないなら・・・と考えた直家は阿波から遠藤俊通と呼ばれる銃の名手を呼び寄せ









銃殺する。

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突如当主を失った三村家は大混乱に陥り、続く明善寺合戦では死闘の末ついに三村家を破ることに成功する。
暗殺を遂行した遠藤俊通は銃による日本初の要人暗殺を成功し、3000石を領有して宇喜多・小早川・池田といった岡山を治める歴代の大名に仕えた。

永禄12年(1569年)独立の機運が高まった直家は突如として隣国の赤松政秀や織田信長と結託し、浦上宗景に対して反旗を翻す。

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しかし・・・

赤松政秀→小寺政職・黒田職隆に敗北
織田信長→遠すぎて救援が来ない

と、味方が全然役に立たない。結局この時は宗景に全面降伏

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許され帰参することができた。しかし下剋上の火が消えた分けでは無かった。

天正2年(1574年)宗景は宗景の兄の孫・久松丸を擁立し「宗景は兄・政宗から権力を奪った悪人である。今こそ真の当主である久松丸を当主にするべきだ」と再び反旗を翻す。この時は久松丸を保護していた小寺政職と外交を行い、黒田職隆・官兵衛を味方に引き入れている。(赤松政秀は邪魔なので殺した)

この方法は上手くいき、備中・備前の各地の国衆が宇喜多家に味方し、宗景は自国の天神山城まで追い詰められる。宗景の完全な無力化によって宇喜多家はほぼ備中・備前を手中に治めることに成功する。
なお久松丸はこの戦いの最中に謎の死を遂げている。

謎の死を遂げている。


















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名君?

籠城していた宗景だが天神山城も重臣だった明石行雄の裏切りによって放逐され、備州を追われる。
これによって完全に下剋上を達成した直家だが、これと同時進行して巧みな内政によって現代の岡山の基礎を作った。

・居城を交通の便の悪い天神山城から、交通要所にある岡山城に移した。
・三村家残党討伐に与し、それが終わると毛利家を裏切り美作一部を領有する。

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三村家を最後まで守ろうとしていた吉川元春に対して

・浦上残党勢力だった後藤勝基を滅ぼす
・焼き討ちに遭った各地の神社の再建を援助している他、様々な神社や宗派を保護した
・城下の整備に取り組み、岡山を中国地方最大の商業地に発展させる


このように梟雄の例にもれず「領民にとにかく優しい」お殿様だったようだが、直家の統治は長くは続かなかった。同盟相手をころころ変え、主君や家内の邪魔な人間を次々と滅ぼす直家を周囲の大大名は危険視し、信長からは討伐相手として敵視されてしまう。

弟・忠家を通じて秀吉と交渉し、自身の側室とその子・八郎(後の秀家)を秀吉に人質として送り込むことで織田家とのパイプラインをつなぐことに成功する。

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が、これが逆に功を奏し、小早川隆景の猛攻を受けながらも居城の岡山は死守し秀吉本隊の到着と共に反撃に転じた。しかし、備中高松城の清水宗治を攻める際中に直家は病死する。記述によると大腸がんだったと言われている。命日はいくつかあるが公式には旧暦1月9日、現在の暦にして2月14日である。

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その後の宇喜多家

秀家の人質という捨て身の策が功を奏したようだ。
秀吉の信頼を得た宇喜多家は前田家に続く第3の大名家として五大老に並ぶ名家となる。

直家の側室・おふくが秀吉の寵愛を受けたこと、秀家は秀吉の養女・豪姫と婚姻したことで天下人の後継者として候補に挙がるまでになるが、秀吉の死後家内の御家騒動が勃発。宇喜多家は大幅に弱体化してしまう。

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さらに続けざまに関ヶ原の戦いによって敗北し、宇喜多秀家は八丈島に流罪、宇喜多家は改易という憂き目に遭った。かくして大名としての宇喜多家は滅亡したわけだが、ただ、豊臣政権の実力者として一目置かれていたようで、秀家が行方不明となっている間、宇喜多家改易による家臣たちの仕官先を忠家や実家である前田家補佐の下、豪姫が斡旋していたようだ。


忠家はそのまま隠居し出家、安心院(権力争いで殺される心配が無いという意味か?)と名乗り大坂で暮らした。
直家の子・秀家は八丈島に流罪となりその罪が許されることは無かったが、豪姫や宇喜多旧臣の仕送りもあって、八丈島のインフラ整備や島民の教育にその一生を費やした。秀家の子孫は明治になって20以上の家となっており、その命脈を残している。












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バレンタイン?何のことだよ