伊達五郎八(1594-1661)は伊達政宗の長女である。出家して天麟院と名乗る。

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1594年、京の伊達屋敷にて政宗と正室・愛姫との間に待望の子供が産まれた。
結婚15年目の吉事にて夫婦は愛姫26歳(初産年齢だと当時にしてはやや高齢)とそろそろ後継者となる嫡男を待望していた。既に長男の秀宗が生まれていたが、側室の新造の方(通称:猫御前)との子であり、田村家との盟約もあってどうしても正室との男子が欲しいところ。夫妻は男子が生まれると信じきっており、男子名しか考えていなかったためそのまま「五郎」と名付けようとした。片倉小十郎か分からないが流石にそのままではマズイと指摘された家臣の言葉によって「五郎八(いろは)」と命名された。身も蓋もない言い方ならキラキラネームである。

母・愛姫の美貌を受け継いだ美少女はもちろんのこと聡明かつ武勇にも秀で父・政宗は「男子であれば・・・」と嘆かせたという。後に同母弟の忠宗が生まれるが、忠宗は何かと姉・五郎八の意見を頼りにしたとされている。

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京で過ごした幼少期、母が一時期キリシタンであったこともあって五郎八もキリシタンの改宗を受けたとされている。記録上は棄教しているが、おそらく信仰自体は彼女の意志で捨てていなかったと考えられる。

5歳の時、徳川家康の六男・忠輝と婚約。12歳の時に正式に結婚する。
この婚約に伊達政宗は天下の剥奪という野心を持っていた。忠輝が家康次男・秀忠に代わって次の将軍となり、忠輝系列の子供が将軍になることで、政宗は外祖父として江戸幕府を事実上乗っ取ることになる。幕府が開かれ天下泰平の世が訪れても真田信繁の妻子を匿ったり、スペインに家臣を派遣するなど明らかに天下取りを伺う行動を見せていた。

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しかし、松平忠輝は秀忠との仲が悪く最終的に改易(忠輝母・茶阿局と秀忠の育て親・阿茶局との対立が表面化したという説もある)。正室あった五郎八姫は伊達家に戻り、以下は仙台で暮らした。(五郎八 22歳)

一般的に女性が20代で夫と死別・離婚した場合、出家などはせず再婚するのが常識であった。そのため政宗や愛姫は愛娘の再婚相手を探したが、いずれの縁談の持ちかけも五郎八姫は断り続けたという。一説には彼女が前述したキリスト教の教えを守っており、忠輝を生涯の伴侶として考えていたと推測される。

父・政宗が死去。(五郎八 42歳)残された五郎八・秀宗の2人に政宗最後の野望を託されたといわれている。

関ヶ原の戦いにおいて政宗は徳川家康から100万石を領有する約束を取り付けていた。しかし度重なる軍功違反や、天下を狙うような姿勢を危険視され江戸時代に伊達家が手にした石高は62万石だった。しかし政宗はこの時の約束を書状にて取り付け、家康の死後幕府に突きつけ100万石を手にしようと考えていたのだ。

政宗は三代将軍・家光の傅役として、病弱で気弱でホモな家光が将軍として立ち振る舞えるよう指導していたという。そのため家光からは絶大な信頼を得ていた。自身の死後、最後の爺の頼みとして伊達家100万石を家光に認めてもらうこと、そしてその書状を五郎八ら2人に託したのだ。

2人は早速計画を実行に移し、幕府に政宗の遺言と書状が見つかったと伝える。
その検分として大老の井伊直孝(井伊直政の次男、井伊家当主)が派遣された。
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直孝は書状を確認すると
「確かに権現様直筆の書状ですな。だがもはや天下泰平の世になって久しく、領地は諸大名や旗本にあまねく分配しもはや与える領地はこれ以上存在しない。天下の副将軍として外様大名を牽引する伊達家ならばこのような新たな領地を所望する行為は辞めてもらいたい」
とその場で書状を破り捨ててしまった。2人に託した政宗最後の野望はここに潰えた。
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1661年、68歳にて死去。松島の天麟院に葬られた。