令和は「炎上商法」の時代と云えるかもしれません。正しいか否かによらず知名度を高められたら勝ち。売り逃げして後は野となれ山となれ。形のあるなしに関わらず、法律もモラルも無しに暴走し、より衆人の目に留まれば商売になり得る。是非はともかくそういう時代になってしまったということです。

 

 

 

常陸の武将・江戸重通も炎上マーケティングを活かした方法で戦国時代の生き残りを図ろうとした人物の一人だと思います。

 



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領地や食料の奪い合いで忙しい世界に「炎上」するって何だよ・・・そんなことしてる暇があるなら戦に行くか畑耕せよ・・・と思わずにはいられませんが、宗教論争に関しては別格で互いの宗派同士いがみ合い、仏教間の論争から果ては国を巻き込んだ戦争に発展するケースもあったのです。

 

常陸で起きた宗教論争「絹衣相論」が今回のテーマです。絹衣とは古くより天台宗の高僧のみに着用が認められたもので、常陸にある天台宗系の寺は同宗派保護してきた大掾氏の支配のもと、戦国中期まで安定した発展を遂げてきました。

 





 

ところが、時代が進むと水戸地方を拠点とした江戸氏が勢力を拡大して南下し、次第に大掾氏の領土を圧迫するようになります。天文年間に入ると近隣の小田氏も南常陸の勢力争いに加担し、大掾・江戸・小田の三勢力が入り乱れて戦う様になります。

 





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戦国時代中期のの常陸勢力図:大掾氏の治める府中は小田・菅谷氏への牽制可能な交通の要所






 





江戸氏有利となるとその支援を受けていた真言宗の寺は天台宗と同じく絹衣を着るようになり、これを不服とした天台宗が朝廷に訴え出ます。当時の天皇であった後奈良天皇はこれまでの慣例を重視し、「真言宗は絹衣を着たらだめやで~」と綸旨を出して一先ずは決着します。

 

 

しかし、そこからしばらく経った天正2年(1574年)、今度は真言宗側が朝廷へ絹衣着用を認めるよう訴え出、真言宗の絹衣着用を認める綸旨を出したのです。これを「聞いてない」と怒った正親町天皇は、勝手に綸旨を出した柳原資定を宗教関連の職から赦免し、出仕停止という処分にしています。資定がなぜこういった綸旨を出したか確実な原因は無いものの、当時の朝廷は常に金欠状態。おそらくは真言宗側から多額の献金があったのでしょう。

 

 
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いずれにせよ、宗教対立やら朝廷の腐敗が混ざったこの問題の泥沼化が予想されたため、朝廷はあの男を呼び出し問題の解決を図るように指示します。

 

 

 

 

 

 信長

 

 

戦国時代の対宗教決戦兵器・織田信長。出たわね。

 

 

 


















 

 

この事件よりも前に信長は一向一揆やら比叡山やらと宗教勢力と何かと対立してきており時には手荒な方法で事態の収拾を図ってきました。その強引さに信長は魔王だ神をも畏れぬ男だと暴君論が展開されてきたわけですが・・・



長篠の戦いが終わって間もない信長の下に朝廷から持ち込まれた難題に、信長は
















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こうだぞ!


 





















という持ちネタのような暴力的な解決はせず、ここは意外にも冷静な結論で決着をつけようとしました。


この問題に関して朝廷は天台宗、真言宗それぞれに肩入れしていて見解がブレている。ここは奉行を選出して話し合い改めて正式な回答を出すべきだ

 

 

こうして信長は公家の中から面識ある5人を選出し、絹衣問題の再審理を命じます。5人は過去の綸旨を全て無効としたうえで、天台宗・真言宗の本山同士で話し合うべきという綸旨を出したのです。要するにザ・丸投げ。

 

とはいってもこの5人のメンバーは三条西実枝のような信長とコネのある人物が多いです。これを後の研究者は「自分の息のかかった公家を裏から操ることで仏教勢力に介入しようとした」と解釈されてきました。ただ、当時の信長は義昭を追放してまだ2年、将軍の代わりに朝廷から任された仕事にもようやく慣れてき始めた頃。単純に公家中で信長の顔が広くなかったのだと考えられますね。





で、選ばれた公家も正直信長に押し付けられた仕事が相当面倒な内容なのを察したのか、かなり逃げ腰な結論を出しています。



 

どっちかに肩入れすると延々とこの問題が続くことになるから、天皇は宗教に介入しない!尾張、平定!!以上!!みんな解散!!

 

 

 

ところが、この判決を常陸まで伝えに行った使者が真言宗の僧侶だったわけですが、この時絹衣を着て常陸に下向したことで大炎上。そりゃ「私が絹衣を着ていいかよくないかは関係者から話し合って決めろと言われました」と絹衣を着ながら話したのでは、もう関係者方面全員を煽っているとしか思えない行動ですからね・・・。結局、この僧の上司が朝廷に呼び出されてしこたま怒られた上で、僧本人は追放処分を受けてしまったのでした。

 

 

 



 

 

で、ここまで書いてきて江戸重通何にも活躍してなくない!?となったのでこの時の重通の動向を追ってみましょう。重通は絹衣相論の問題に完全に真言宗サイドとして行動していたようで、資定の綸旨を知るとすぐに常陸の真言宗の僧侶に絹衣の着用を認めるように広めており、朝廷から「勝手なことするな」とお叱りの手紙を貰っています

 

 

しかし、重通はこれを逆手に取り、「安心してください、私なら宗教対立を解決できますよ!!」と猛アピール。


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問題解決に協力する振りを見せて、その年に朝廷と信長から但馬守の官位をちゃっかり貰っているのです。

 

 




ところが、「当事者同士で決めろ」という綸旨はあまりにもふわふわ過ぎて何をすればいいか分からないぞと重通も反論しており、翌年再び朝廷から再綸旨が下されることになりました。

 

 

ここでは先の真言宗側が勝手に絹衣を着用して常陸に下向したことを例に挙げ、「前年に出した通り基本的にはトップ同士での話し合いになるけど、真言宗は古くから絹衣着用を朝廷の許可をとってから認めているので、慣習に従え」と空気読めといった内容になっています。同時に信長と真言宗醍醐寺との間で判物発給がなされ、相論は天台宗側の勝利に終わりました。

 



 

 

その後、重通は同盟国の佐竹氏をバックに勢力拡大。大掾・鹿島といったライバルたちの戦いに勝利し、南常陸の統一まであとわずかという所まで迫ります。しかし、天正13(1585)に起きた府中合戦では大掾氏側に佐竹氏とも繋がりの深い真壁氏幹が救援にかけつけてきたことで状況は一変します。

 

 

真壁氏は実質佐竹家臣のような存在でしたが、大掾氏の庶流出身でもあり、親戚のピンチに主家とも戦いを辞さない態度を構えたのです。佐竹側は氏幹や重通の対応に苦慮することになります。ただ、重通は再び大掾氏討伐を開始。この時は佐竹軍と氏幹が直接対決にも及ぶこともあり、氏幹の謀反もあり得たほどに常陸情勢は不穏なものとなっていました。





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ところが、度重なる出兵に江戸氏や家臣たちの財政は疲弊し家中はやがて分裂していきます。にも関わらず重通と大掾氏の対立は収まらず、豊臣秀吉の小田原征伐を迎えます。

 

この時、重通は大掾氏への牽制から佐竹義宣へ代理の参陣を依頼しています。ところが、秀吉が奥州仕置で、参陣しなかった大崎葛西といった諸勢力を改易しなかったように、重通も許されず本領安堵されなかったのです。



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これを常陸統一の好機とした義宣は、重通の本領安堵の依頼を反故にします。実はこの時大掾氏から義宣へも秀吉への執り成しを望んでいたようなのですが、義宣はこれも黙殺。

 

 

両者は北条方に味方して秀吉に参陣しなかったことにされ、大掾氏に至ってはその傘下勢力共々、呼び出された宴の席にて暗殺され、当主たちのいなくなった南常陸の諸勢力はあっという間に佐竹氏の制圧されてしまいました。

 



図1

 

 

重通は辛くも佐竹氏の追撃を逃れ、親戚の結城晴朝の下へ落ち延びますが、これにより戦国大名としての江戸氏は滅亡し、佐竹の常陸統一が完成しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日談なのですが、ここにきて佐竹氏は絹衣相論を再燃させます。江戸氏に比べて領主権力が強かったこと、佐竹-秀吉、秀吉と朝廷の結びつきの強さを盾に、真言宗の積極的な支援を行ったため、関ヶ原の後佐竹氏が秋田へ転封になるまで常陸では再び宗教相論が活発化してしまうのでした。

 




 

 

(管理人の感想)

その後常陸に入ってきた徳川光圀は鹿島神社を強め仏教勢力の弱体化を図りますが。これってやっぱり天台宗と真言宗の対立に嫌気が差したからなんですかね?後、重通が何とか所領安堵された世界線があったとしても、「関東に江戸が二つ・・・?」と幕府側から謎の粛清を受けてそう。




佐竹一族の中世
高志書院
2017-01-20














朝廷の戦国時代
神田 裕理
吉川弘文館
2019-09-27