近代日本のヤベー奴らといえば、薩摩と長州のツートップであり、近年悪しく言われる明治維新やその後の歪な富国強兵策によって、軍事国家への成長と第二次世界大戦による国家の破綻を招いた原因でもありました。

 

 

近代化という功績と同じくらい、夫婦同姓や廃仏毀釈、女性蔑視女性差別、資本主義など今では御大層に「伝統」とあがめられる現代日本の文化の足枷を作った罪もあったりして、その意義は現在、賛否両論といったところです。(個人を犠牲にして近代化しないとブリカスに植民地化される危険性があったからね。当時の偉人たちの決断は仕方ないところもあり、結果的には正解だったんじゃないかと思います)

 





 

 

良くも悪くも長門と薩摩は今の日本を作り上げた政治家のスタイルも似通ったところがあるんじゃないかなと思います。故に、今回の記事では明治維新の功罪を論じるのではなく同時期に存在したもっとヤバい藩の話をしていこうと思います。ヤバすぎてカルトだよこれは。












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それが現在大河ドラマ「晴天を衝け」の中心的存在、水戸藩です。

藩主徳川斉昭は過激な尊王攘夷派を掲げ、後に幕末最も悲惨な事件「天狗党の乱」の原因を作り出しました。で、「天狗党の乱」はなぜ起こったのか?を解説する前にまずは水戸学について知る必要があるでしょう。

 


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「水戸学」。それは水戸藩二代目藩主・徳川光圀が研究してきた日本史の解釈論の一つです。

光圀といえば、徳川吉宗、大久保彦左衛門と並ぶ江戸時代を代表するお茶の間ヒーローの一人であり、諸国を漫遊して庶民を虐める不届き者たちを懲らしめる時代劇はまぁ知らない人の方が少ないでしょう。徳川将軍なんかよりも光圀なら知っているって人も多いんじゃないでしょうか。

 

 

 

その光圀ですが、史実では時代劇のように諸国を渡り歩いてはおらず、若い頃は奇抜なファッションをして江戸の町を闊歩し、悪い奴らと群れて寺の軒下で寝ているホームレスを斬り殺すなど藩主にあるまじき凶行を犯したりもしていました。

 



 

 

この非行は光圀の兄・頼重へのコンプレックスの影響もあったと言われますが、光圀が18歳の時に司馬遷の「史記」と出会、伯夷と叔斉の話を知って感動しそれまでの非行を改めます。その後光圀は史学の道を究めるため林羅山に師事し、34歳の時に水戸藩の家督を継ぐと、「江戸四名君」と称される藩主として活躍しました。名君といっても、「水戸黄門」のイメージからは信じられない荒っぽい政治で、暴君にして苛烈といった方が正しいのですが、まぁ当時でも全国的に存在感を放っていたのは決して悪くないという話なんでしょう。

 

 

具体的に上げると

 

年貢関連

・増税(光圀期に水戸藩の年貢率は48%⇒53%に増加)

 

宗教関連

・寺社保護の予算を減らすため、水戸藩内の寺の数を30%カット 

・大資本の寺社保護

・積極的な神仏分離を推し進める

・八幡神社の弾圧

 

 

 

とはいっても、光圀の最も有名な事業といえば大日本史編纂に尽きるでしょう。明暦3(1680)に始まった日本史研究の事業。当初のスタッフは光圀含めたった4人というブラック部署だったようです。

 

 

当時の史学研学は林羅山の三男・林鷲峰が中心となって行われてきましたが、光圀はかつての師でもあった林家に対抗すべく新たな日本史編纂。

 

 

大日本史の特徴は司馬遷リスペクトの紀伝体と、これまでの史学研究では触れられてこなかった南北朝時代にメスを入れた所であります。ただ、資料が散逸の限りを尽くした南北朝時代というテーマに加えて、一人ひとりの人物についての列伝を記しその評価と考察、個人別に年表を作ったり、それぞれの人物について思想比較、天文・地理・宗教の評価、さらに光圀が一次資料の入手に拘ったことから、編纂事業は膨大な時間とコストがかかることになり、形として相成ったのは編纂開始から40年後、完成版は何と幕府も倒れた250年後にもなります。これもう歴史研究の歴史だろ。

 



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とはいっても編纂事業が進むにつれて光圀は日本全国から優秀な研究者をヘッドハンティングしてきて、明国出身で朱子学の第一人者である朱瞬水を始めとして助さん格さんこと佐々十竹と安積蛋白ら当時の史学ブレ―ンたちが光圀の下に集結したのです。それだけに編纂にあてられた費用もすさまじく一説には多い時で藩の予算の3分の1がこれに宛てられました。よく一揆がおきなかったもんだ・・・

 

 


朱子学に関しては解説するとまた別の記事を書かなくといけなくなるとの
この動画が分かりやすいかなと思います。
 













 

ところで、編纂した研究について具体的にはどのようなものだったのでしょうか。

 

 

光圀は朱子学の観点から南北朝時代を評価。光圀は何と「~学の観点から後醍醐天皇が正統であると定義づけられるが、その後醍醐天皇から政権を奪った足利尊氏は賊!」と評価しました。これがなぜ問題になってくるのか。

 









 

 

~彰考館にて~





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「家康公は新田義貞の子孫を自称していた。義貞は南朝の武士やから南朝方が正統やな」

「でも南朝から政権を奪った足利尊氏と北朝方の天皇は逆賊となるやらんか」

「どういうこと?今の天皇は北朝の子孫だけどそれって今の天皇は偽りってこと?」

「三種の神器。南北朝期には後醍醐天皇が神器を持っていたから南朝が正統、統一時に北朝に渡したからそれ以降の北朝は正統」

「神器が天皇の証明なら、普通神器を盗むよね(問題発言)もう終わりだよこの国」

「幕府は儒教を推進しているやろ。儒教的には君主は「徳」が大事で「物」で決まるものではないという考え方やから、神器保持者説は幕府の思想的にアウトやろ」

「徳のある人に「神器」が与えられるってことにすればいいんじゃない、ハリーポッターリスペクト」

「後醍醐天皇は日本史でも稀に見るクソ天皇なんですがそれは・・・」

「白河鳥羽後鳥羽の三馬鹿院もクソだったからセーフ」

「尊氏は九州の武士たちから信頼されてるし徳はあったぞ」

「でも政権奪った糞野郎じゃん」

「ああ!もううるせー!後醍醐は日本中に喧嘩売りまくったガイジ!天皇に弓引いた尊氏もガイジ!それに靡いた一般武士もガイジ!」

「みんなガイガイ音頭踊れー!」

「あそれあそれガイジが出た出たよよいのよいw

あガガイのガイあそれガガイのガイあよいしょガガイのガガイのガガイのガイw

あガイジガイジガイジガイジよいしょよいしょよいしょよいしょw

あっガヰ、あガヰ、あガヰガヰガヰ

あガガイのガイあそれガガイのガイあよいしょガガイのガガイのガガイのガイw

あガイジガイジガイジガイジよいしょよいしょよいしょよいしょw

あガガイのガイあそれガガイのガイあよいしょガガイのガガイのガガイのガイw

あガイジガイジガイジガイジよいしょよいしょよいしょよいしょw」

 

 

 

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結局、導き出された結論は

 

 


「神器を持っている者が正統な天皇だが、この神器は「天」と「民意」の支持を受けてパワーを発揮するもので、仁から大いに逸脱した天皇はその正統性を失っても仕方がない。よって北朝方も(権威は弱いが)正統であり、それを補佐した足利尊氏も立派な将軍である。でも、天皇に弓を引いた事実は変わらないので足利氏も因果応報(まさかの仏教要素)により政権を失った。それはそうと死ぬまで天皇に尽くした新田義貞ってすげーわ(唐突)

 


 

と、無難なものに収まったのです。(幕府の正統性主張も忘れない)

 

 

そしてこの光圀が開いた天皇研究こそが日本の根源に迫るものとしてより思想を過激化させていきます。

 

 

院政や後醍醐天皇のような悪名高い天皇を批判してみたり

中国の簒奪政権と比較して、連綿と天皇が続く日本の王朝を礼賛したり

朱子学の考えと融合させて「天皇=すげー奴」「武士=すげー奴から政権奪ったからすごくない奴」と主張したり

 

 

・・・幕府を長く保たせるための秘訣だった朱子学が翻って幕府を終わらせた原動力になったということは皮肉な話でありました。そしてこのような天皇第一主義の思想を尊王思想と呼び、水戸藩が中心となって後の幕末の地獄絵図を有むのでした。






水戸維新 近代日本はかくして創られた
マイケル・ソントン
PHP研究所
2021-01-28



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