東京に負けず劣らず千葉も大概頭のおかしい人たちが集まる土地なのかもしれない。10年以上自分を県知事と思い込んでいた俳優もいれば、10年間インターネットで燃え続ける高校生、上司を自害させて自分はグラビアアイドルになっている研究者、挙句の果てにはR-1ぐらんぷりの出願表を間違えてフジテレビではなく千葉県の選管に提出してしまったうっかりさんもいる、しかも多人数。

 

 

 

こうネタに書かない千葉県というのは、逆に北関東と違って面白い所も多い=魅力のある県なのかもしれないが、いかんせん上に立つ人間としては日本史を見てもどこかやべー奴らが多いのが特徴だと思う。

 

 

 

ということで、今回はそんな千葉お笑い軍団の元祖について解説します。





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千葉氏は桓武天皇の末裔、あるいはそれよりも前の時代から上総・下総を支配した名族の一つで、県名の由来にもなっています。戦国時代では関東八屋形の一つで勢力を誇り、この時代になると各地に千葉氏ゆかりのある人物が各地に存在します。

 

 

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宗家は「胤」の字を大大用いており各地にいる「胤」の名を持つ戦国武将は大体千葉氏が関係していると言われています。有名どころでは東北の大名相馬義胤や葛西晴胤、龍造寺家臣円城寺信胤、美濃の国衆遠藤盛胤らが挙げられるでしょう。

 

 



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しかし、出自だけではやっていけないのが戦国時代。北条氏や里見氏の勢力に押され千葉氏はなかなか単独でやっていくのが厳しくなり、泣く泣く北条氏の手を借りてなんとか大名として生き残っているような状況でした。

 

 

 

そんなこんなで天正13(1585)の正月。居城の本佐倉城で開かれた正月の祝い事の席で千葉家に仕え配膳役を仰せつかされていた鍬田万五郎という近習が二回屁をこいてしまいました。当主・邦胤は一度目の屁はともかく二回目となると流石にこれはいかんと考え、万五郎を𠮟りつけました。




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室町時代において、面前で誰かを叱るというのはその人を面子を潰す行為でして、見ず知らずの人間だったならば喧嘩、殺傷沙汰になりかねない行為です。室町時代から江戸時代にかけては「叱り」「重叱り」という刑罰にも定められるぐらい人にとってはきつい行為ではありました。最近でも部下を大多数の同僚がいる中で𠮟るのはパワハラにあたるとか何かで問題になっており、邦胤の叱責も落ち度が無いとは言えないでしょう。

 

 

しかし、それを万五郎自身が言うとなると話が違います。

 


 

出物腫れ物所構わず、どうして家臣たちの前でこのように叱責をなさるのですか

 



 

 

確かにおならは生理現象ですから咎めるのは酷なもの、しかも人前でそれを指摘するのは面子を潰しかねないことです。しかし、それをやった本人が開き直るのはまた別の話です。






自分が粗相した癖に口答えするとは何様だ!!!!!とここで邦胤の堪忍袋がぷっつん。万五郎をその場で蹴っ飛ばすと刀の柄に手をかけたではありませんか!

 

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それを見ていた千葉家臣たちが慌てて邦胤をなだめその場は収まりました。まぁ正月から殺傷沙汰では縁起が悪いですからね。

 

 

 

しかし、この時饗応の席で受けた恥辱を万五郎は逆恨みし、数か月後何と邦胤に復讐を強行します。麒麟がくるの光秀ですら数時間で怒りを抑えたのに・・・。

 

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5月の深夜のこと、万五郎は邦胤の寝所に忍び込むと刀で二度邦胤の身体を刺し逃走。邦胤の叫び声で家臣たちがかけつけてくると、既に万五郎は逃走しており血だまりの中で邦胤は「あの憎い小悴にやられた・・・早くあいつを討ち取るのじゃ・・・」といって息絶えてしまいました。享年29歳。

 

 

すぐに家臣たちが万五郎を追いかけ、近くの村で追い詰めると万五郎は林の中に逃げそこで自害して死亡(あるいは捕まって処刑されたとも)。しかしこの騒動はこれで終わりませんでした。

 

 

千葉氏の立場というのが先ほど書いたように北条氏を後ろ盾に何とか勢力を保っていたかなり不安定な状況下にありました。それは当主が死んでしまうと北条家がどこからともなく介入してきて跡継ぎを送り込まれてしまうということです。下野の佐野家では正月に一人戦に飛び出してしまい討ち死にした結果、跡継ぎなしを理由に北条家に乗っ取られたという例もありました。

 

 

 

 

 

千葉氏の場合は実子・重胤がいました。ところが10歳と幼少を理由に北条家の他、千葉家の重臣・原胤栄までもが反対。結局、北条氏政の息子(弟とも)が送られてきて千葉直重と名乗り、北条氏に乗っ取られてしまうのでした。

 

 
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さらに分の悪いことにこの5年後、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした時、千葉家って北条家の眷属扱いされ一緒に改易の憂き目に遭ってしまいます。重臣の胤栄は既に病死、その息子胤義も小田原の戦いで自害。当主の直重はというと氏直と共に高野山に上った挙句、先祖の姓である伊勢姓に戻し、千葉家など継ぐ気などさらさらなし。


残った邦胤の息子・重胤は徳川家康や息子秀忠に度々御家再興を願い出るのですが、それが叶えられることはありませんでした。その後も代々千葉家の当主が再興運動を起こしていますがすべて失敗に終わります。故に、戦国大名としての千葉氏は邦胤の代で終焉を迎えたといってもよく、つまりは奈良・平安から千葉の地を治めた名門・千葉氏はクソガキのおならで滅んでしまったことに。

 

 

これは天正の「スーパークレイジー君」。

 

 



 

この千葉家滅亡の顛末には少し裏があると言われています。というのが重臣・原家の存在です。この家、本来は主家を盛り立てていかなければいけない存在なのに何かと北条家にすり寄る行動をしており、邦胤よりも以前にもアンチ北条派の当主・親胤を殺害し、親北条派の胤富を擁立させたという前科があります。

 

 

邦胤自身も、織田信長の使者相手に「京を押さえているからって成り上がり者が調子に乗るんじゃねぇぞ(意訳)」とイキリ散らかしており、かなり周囲大名との関係性を考えないワンマン大名だったのかもしれません。それを危惧した原氏に今回も暗殺されてしまったのでは無いでしょうか。秀吉の襲来なんて原氏の予測不可能な自体でしょうし・・・。

 

 


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その他、邦胤と万五郎は衆道の関係にあり邦胤の浮気を知った万五郎が放屁によって意趣返し、二人の関係を知っていた家臣たちが(万五郎の怒りももっともですから許してやったらどうです?)と止めに入っていたのではとする研究もあります。

 

家臣が主人を暗殺するって光秀みたいな特例中の特例を除けば何かと男色がらみのケースが多いですし・・・。

 

 

 

 

いずれにせよおならによって滅んだ千葉家。江戸時代の千葉家ゆかりのある人からすれば溜まったものじゃないでしょう。昔からしてこんなことしてるんだから現代でも傍から見れば壮大なコント劇が繰り広げられているわけですなぁ・・・

 

 

 

(管理人の感想)

それでも江戸時代の千葉家は万年浪人暮らしながら、他家に仕えたり帰農して庄屋業で大成功した家臣の末裔たちが何かと再興活動の資金援助をしたせいでそこら辺の武士よりもいい暮らしができたんだとか。ニート生活最高や!どこかで読んだ本で「真の上級国民は没落しない」と書いてあった記憶がありますが、千葉家もまさに上級国民に選ばれた存在なのかなーっと思ったり思わなかったり。