戦国武将の逸話というのは多くが後世の人々によって創作されたもので、武将本人の人格というのは一次資料にあまり残っていないことが多いです。だから突き詰めていくと国衆も戦国大名もみんな保身と言い訳を重ねる今の政治家とそう変わらない行動原理になっちゃう。ですが、ごく一部の人物に関しては彼らの人となりが分かる貴重な資料が残っていました。それが大名本人が出した些細な手紙です。友人や親族に出した何気ない手紙一枚一枚にその武将の性格が反映されます。それが後世の人々の研究者にとって大きな手助けとなっていたりするものなのです。



毛利

今回紹介する人物は毛利元就。ほんの数十石程度の弱小国衆から一代で中国地方の雄にまでのし上がった戦国時代を代表すると人物です。一般的な毛利元就といえば、謀略が得意で、敵に対しては冷酷だが三本の矢の逸話に代表されるように家族を大切にするといったイメージがあります。

 

 

実際のところは、謀略はするにはするのですが、大勢力の間で上手く立ち回ってきた中小企業の社長といったイメージで、元就が大成するのは晩年になってからのことですから長年の国衆生活で骨の髄まで貧乏癖が治らず愚痴っぽい性格だったようです。それは彼の手紙に現れます。

 

 

元就はとにかく手紙魔で、基本的に家臣たちから来た手紙には即返信していました。現代でも送ったメールがすぐに返ってきたら「あっ、相手から大事にされてるんだな」という気持ちになるもので、元就なりの人たらしの方法だったとも思いますが、中には返信の書状に沿えて「返信くれ」と催促の書状まで出したりしているので、単純に手紙でやりとりをするのが大好きだっただけなのかも。これはLINEの既読無視に怒るタイプですね・・・間違いない。そしてその手紙の一つ一つが長い。本人は「勢いで書いた」と手紙の中で弁明しているのですが、やたら家臣や親族の愚痴が入っていたりと、部下をまとめる以上に元就が本気で愚痴をこぼしているとしか考えられないような内容まであります。故に「読んだら燃やしてくれ」と手紙の最後に付け加えることもあったようですが、主君からの手紙など業務メールの最重要案件。ばっちり家臣たちに保管されてしまっています。(おかげで手紙魔の毛利元就、細川忠興、伊達政宗あたりはその性格が非常に明瞭なのです)

 

 

長い手紙の中でも特に長いのが「三子教訓状」いわゆる三本の矢の元ネタとなった手紙です。老境の域に入り次世代の毛利を支える息子たちに宛てた人生訓でありますが、これが校長先生の話並みに長い。元就もさぁ書くぞ!と意気込んでいたのか紙もやたら長いものを用意しました。それ故、愚痴がヒートアップしてきて、いよいよ書くスペースが無くなり、最後らへんの文字が小さくなったりはしていないのですが、結果2.85mの大分量に。戦に事務仕事に忙しい息子たちにこんなもん読んでる暇はねぇ!

 

 

 

さて、その内容を見ていきましょう。

 

 

第一条

何度も繰り返して申すことだが、毛利の名字を末代まで廃れさせるな

 

第二条

元春と隆景は他家を継いでいるが、毛利の二字を疎かにしてはいけない

 

第三条

改めて述べるまでもないことだが、兄弟は仲良くせよ。三人の間柄が分け隔てがあるようなら三人とも滅亡してしまうだろう。

 

 

初っ端から既に同じ内容を書いており不穏です。第三条の「毛利の名を絶やさぬように兄弟仲良くしろ」だけで済むことじゃん!と思うのですが、手紙魔の元就を舐めてはいけません。

 

 

第四条

隆元は弟たちをまとめるものとして全てのことを指図せよ

 

第五条

隆元は弟たちと意見が合わないことがあっても辛抱強く耐えよ。また、元春・隆景たちも兄をたてるのが道理である。もしそのまま毛利家に留まっていたなら福原(福原貞俊)や桂(桂元澄)と一緒に隆元の命令は絶対であるはずだ。他家を相続しているがその心持ちぐらいはあってもいいと思う。

 

 

俺は長男だから大丈夫だったけど次男だったら(ry。まぁ長男を立てよというのは無難な内容だと思いますが、ここで引き合いに出される家臣二名は何かと元就の意図を組まず「これは毛利のためですから!」と言って行動を起こす問題児。唐突に出てきてdisられていますが、元就の持ちギャグのようなものでした。

 

 

第六条

この教訓はせめて孫の代までは心にとめてほしい。末代まで留めれば三家は何代でも続くと思うが先のことは何とも言えないのでせめて三人の代までは守ってほしいものだ。

 

 

何で弱気になるんだよ。

 

 

第七条

それから妙玖(元就の正室)の供養も忘れないように

 

隙あらば亡妻を引き合いに出すな。

 

第八条

宍戸隆家に嫁いだ五龍(元就の次女、長女は毛利家の御家騒動に巻き込まれて早世しており、その反省からか他の兄弟比べて異常に可愛がっていた)も大切にしろ。三人と待遇をたがえてはならない。

 

第九条

今、虫けらのような子(四男~六男)たちがいるが、彼らが成人したらいずれか遠い場所でもいいから領地を与えてやってほしい。愚鈍で無力であったらいかように処置をとっても結構である。

 

第八条で「姉ちゃんを大切にしろよ!」と言っといてこれである。いきなり虫けら呼ばわりされ「どこでもええから領地与えとけ」と雑に扱われるって元就さん第三条と矛盾していないか?

 

 

しかしながら、三人と五龍の仲が悪くなったら(ry

 

まーた五龍かいい加減にしてくれ。

とここまで書いてきたが、とにかく兄弟家族大切にしろとしか書いていない。まぁ一族間で内紛が起きていいことはあんまりないからわかったよ大殿!・・・で終わらないのが元就公である。ここでエンジンがかかってきたのか急にヒートアップし始めます。

 

 

第十条

こうみえても、私は戦で多くの人命を奪ってきたからこの因果はいつか受けることになるだろう。それは子にもかかるかもしれないから、自重するように。

 

第十一条

私は20歳の時に兄・興元に死に別れ、それから大波小波にもまれ、様々な変化を遂げてきた。筋骨隆々なわけでもなく、知恵や才覚が人一倍あるわけではなく、神仏のご加護があるような人間でもないのに、これら修羅場を通り抜けてきたのは言葉に尽くしがたい不思議なことだ。それ故に今日一日でも早く隠居して静かに暮らしたいが、今の世の中では無理なことだろうか。

 

第十二条

11歳のとき、猿掛城に住んでいたが、旅の僧がやってきて念仏講を説かれた。それ以来毎朝祈願をかかさず行っているが、これは来世だけでなく現世の幸せも祈願するものだそうだ。朝太陽を見て十回念仏を唱えること、これをお前たちも是非欠かさずにやるように。

 

 

なんだこの爺、急に昔話し始めてあぶねぇぞ!?というか十条・十一条に至っては糞上司の自慢話じゃん。こういうことしてるから息子たちから嫌われるんだよ。

 

 

第十三条

厳島神社を厚く信仰していたから折敷畑そして厳島の戦いを勝利することが出来た。これは厳島の神様のご加護があってこそである。だから厳島神社への信仰・参拝をかかさないこと。

 

 

さっき「神仏の加護があるような人間ではない」って言ってませんでしたかねぇ?

 

 

第十四条

これで日頃から言っておきたいことも全て申し述べた。ついでに言いたいことも全部言えて満足した。めでたいめでたい。

 

 

 

読んでるこっちはちっともめでたくないんですがそれは・・・。

 

 

 

 

この手紙は1557年、厳島の勝利後に書かれた手紙であり、これで自分の役目も一区切りがついたと思っていたのでしょう。しかし、元就の予想に反して毛利家は膨張を続け、大内家さらには尼子家も滅ぼしかつての主家を凌ぐ全国有数の大大名にまで成長していったのです。一方で、嫡男・隆元はこの6年後に亡くなってしまうなど不幸もありました。とはいえ、この教訓にも思うようところがあったのか、残された二人は毛利家の屋台柱となり、毛利家は隆盛を極めます。

 

 

 

できれば三本だけでなく7本でも8本でも束ねることが大事だと書いてほしかったものですが、まぁこう手紙に書き連ねることになって元就自身のストレスも発散し、健康に繋がったのかもしれませんね。