北条家滅亡。その原因は名胡桃城事件が発端でした。天正壬午の乱の終結後、上野国沼田領を巡って真田昌幸と北条氏との間で騒乱が起こります。俗にいう沼田領問題と呼ばれるこの対立は、真田側の軍事的勝利によって実効支配してきた状態でした。

 

 

天正15年、秀吉は天下惣無事令を発布。未だ力のあった北条家を豊臣政権に組み込むためこの沼田領問題の裁定に取り組み始めます。裁定の結果、沼田領は北条の土地となりかけましたが、昌幸は「そこには先祖の墓がある」と土壇場で主張して名胡桃城を含め3分の1を真田領が獲得したのです。こうして煮え切らないまま沼田領問題は解決したかに思われました・・・。

 

 



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その年の11月に事件が起こります。沼田城代の猪俣邦憲が名胡桃城代の鈴木主水の家臣・中山九郎兵衛(主水の妻の弟にあたる)を寝返らせ。名胡桃城を奪取したのです。当時不在で岩櫃にいた鈴木は事の仔細を知ると、自らの失態を恥じて近くの寺で自害してしまいました。

 

 

この事件を昌幸は惣無事違反である秀吉に訴え出たことで、秀吉は北条氏の小田原征伐を決断。沼田領は完全に真田家のものとなり北条氏は滅亡してしまいました。

 

これが史実なら実行犯の猪俣邦憲はとんでもない戦犯です。一指揮官レベルの独断専行で100万石を超える大国があっという間に滅んでしまうのですから現代でいうなら「中国で蝙蝠食べた男」「ponhubを潰した男」「テドロス・アダノム」に比較されるレベルのヤバい奴でしょう。確かに「北条記」では邦憲を「知恵分別なき田舎武士」とこきおろしており、戦後豊臣の厳しい探索により捕らえられ磔にされたとありますから、その責任は重大なものでしょう。

 



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ただ、猪俣だけが悪いと言うなら北条側が彼を斬り捨て、沼田領を真田側に譲り渡せばまだ交渉の余地があったはずです。陪臣のせいで家が討伐され滅亡するようなことがあれば、皆豊臣家を恐れて誰も従わなくなってしまうでしょう。それどころか、邦憲は北条側に首を斬られることもなく引き続き沼田城代を務め、北条側から対豊臣の守りを任されているのです。

 

 



 

 

 

 

猪俣邦憲は北条家臣・富永氏の出身で、元の名を富永助盛といいます。譜代家臣の出であり田舎武士でもなんでもありません。天正11年、北条氏の上野制圧に先駆けて上野方面を任されていた北条氏邦につけられ猪俣姓を名乗ります。猪俣氏は平安時代後期より勢力を伸ばした関東の古武士団・武蔵七党の一勢力でした。氏邦も上野の有力国衆藤田氏に養子入りして藤田姓を名乗っているので、上野支配のための準備をしていたと考えられます。

 




 

1582年、本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏は滝川一益に勝利し箕輪城までの支配が完了。沼田城には邦憲が入れられるのですが、その後天正壬午の乱で混乱状態の上野をどさくさに攻撃してきた真田信之に奪われ箕輪に交代していたのでした。その後も沼田城攻めに氏邦や小田原から氏直が攻めて寄せるのですが歯が立たず8年間膠着していたのです。

 

 

 

沼田城と箕輪城の支配もまた複雑で、箕輪城は当初は長野氏が治めていたものの武田信玄の侵攻を受け、1566年に滅亡すると武田家滅亡までは家臣・内藤昌豊とその一族の居城、武田家滅亡後は一時滝川一益の拠点となった後、北条側が領地を手にすると城代として猪俣邦憲が入れられました。

 




 

一方で沼田領は在地の国衆・沼田氏と服属先の上杉謙信の支配下にありました。謙信死後、上杉氏が御館の乱で分裂すると、北条氏が一時的に奪取。これを受けて、上杉氏が甲越同盟の条件として武田側に切り取りを許可。切り取り次第を任されたのが真田昌幸でした。

 


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さて、記事の前半で書きました「名胡桃城に先祖の墓がある」といって沼田領の一部を主張したことは昌幸による真っ赤な嘘でした。確かに昌幸の父が上野に亡命していた時期はありますが、元来信濃の国衆である真田氏、攻略が始まったのもわずか10年もたっていません。何としても沼田を確保したい昌幸の嘘でした。秀吉も嘘とは分かっていたでしょうが、北条よりも先に臣従し対徳川の楔役として昌幸の機嫌をとりたく、名胡桃の領有を認めてしまいました。これが次の火種となってしまったのです。




 

 

そして邦憲の名胡桃城奪取に関しても次のような説も伝わっています。本来調略して寝返らせたはずの中山九郎兵衛ですが、鈴木主水と前々から仲が悪く、中山からの要請を受けて軍を動かしたというのです。そうなると、邦憲は近隣勢力から助けを求められて軍を動かして保護するという一国衆としてごくごく普通の行動だったのです。


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事件勃発から3週間後、秀吉は北条氏直に宣戦布告。北条氏だけでなく日本中の諸大名に配布しました。これを受けて秀吉政権への窓口担当だった北条氏規は徳川家康を通じて奔走します。しかし、秀吉の要求する氏直・氏政の出仕がまとまりません。この時北条側も「猪俣の攻撃は惣無事令に当たらない、なぜ宣戦布告されるのか分からない」と秀吉の糾弾を困惑していたばかりなのでした。これは現地で何が起きている氏規と本国でのほほんとしている氏政の温度差の違いなのでしょう。

 


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宣戦布告がなされて2週間が経過。氏直は秀吉に宣戦布告を取り下げるよう執り成しを駿河にいた富田一白、津田盛月(2人ともかつて沼田領問題を担当した人物でした)に行っています。氏規では無理だと判断したとして交渉相手を切り替えたのでしょうか?ここの書状でも「名胡桃城のことは一切身に覚えがない。名胡桃城主の中山も真田から渡す手はずだったのですが、真田から兵を差し向けてきたのでそれに対処するため沼田から兵を出したのです

 

氏直サイドから見れば、沼田領決裁で領地分割は決まったものの名胡桃城は鈴木主水から中山九郎兵衛に渡す形で北条側が支配する手はずになっていたはずでした。にも関わらず真田は引き渡しを拒否して鈴木主水が中山を攻撃、困った中山が邦憲に救援要請して軍事衝突に至るということになります。そして真田側の証人となるはずの鈴木主水は死亡済。

 

 

さらに部の悪いことにこの書状を受け取った、富田・津田の2人は当時職務怠慢を理由に秀吉から更迭を言い渡されていたのです。つまり、現在に伝わる沼田領裁定の内容すら捻じ曲げられていた説すらあるのです。

 





 

 

いよいよ秀吉との決戦が近づいた天正18年の正月。相も変わらず沼田城の守将を務める邦憲の下に氏政から歳暮が送られます。生海鼠、干し海鼠などの食べ物と共に「上野のことは沼田一白に極まる」と激励し翌日にはその弟・氏照からも「上野の取り仕切りは任せる」と書状を送っています。事件から2か月、これは北条本家が名胡桃奪取を承認したも同然の事でした。駿河にいる富田らが更迭されているのも知らずこれで北条も安泰だと安堵する氏政ら、上洛拒否など北条側にも落ち度はあるものの、邦憲の出撃など本来はどうでもよく、秀吉のでっちあげにより北条家は討伐そして滅亡の憂き目にあったのです。

 

 



 

 

その後の、邦憲もはっきりとした行方は分かっていません。北条家の滅亡により切腹を言い渡されたのは北条氏政と氏照、そして側近にして北条統治の中枢を担う松田憲秀、大道寺政繁の4人。邦憲は公式に処刑された記録はなくその上司の氏邦も処罰されることはありませんでした。

 

 

戦後、氏邦は前田利家に仕え北陸の地で亡くなりました。邦憲もひっそりと戦場を脱出し弟と共に前田利家に仕えたのではないでしょうか。

 

 

 

管理人の感想

北条家は全ては秘書がやりましたとして部下のせいにしないということでしょうか。

 




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