今回からしばらくの間、戦国武将解説の中でシリーズ解説をしていこうと思います。

テーマと題して「無能な家臣シリーズ」。戦国時代、数多くの無能な殿様が現れては消えていきましたが、家臣たちの頑張りによりなんとか家が持ちこたえるケースは往々にしてありました。しかし、家臣たちが無能では元も子もありません。そして権力を持てば家全体に与える被害も甚大です。今回のシリーズでは本人はもちろん家もそして仕えた家も挙句の果てには領国まで滅亡に導いてしまったスケールのでかい無能家臣を解説していきましょう。

 

 

 

それって大日本帝国じゃん・・・

記念すべき第一弾として紹介するのは長続連と遊佐続光。長本人というより彼が仕えた畠山家は戦国期は次から次へと問題児が登場し無差別級無能バトルが展開されるのですが、その最後に登場した人物が彼になります。彼の罪状はずばり「疫病蔓延させて領民虐殺した罪」

 

 

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ただ、彼も本人がやりたくて領民たちを病に陥れたわけではありません。疫病による七尾崩壊に至るまではいくつもの文脈がありました。

 

 

領地を治める大名から下々の民に至るまで民度がマッドマックスな戦国時代前期においてもほとんど戦が起きず至って平和な地域が日本に3つだけありました。一つは大内氏の支配した山口、二つ目は土佐一条氏の中村、そして3つ目が畠山氏の納めた能登七尾です。

 

 

能登七尾家7代当主に就いた畠山義総は本人の才覚、中央とのコネクションを活かし、彼の治める七尾城の城下町は当時の日本随一の繁栄を見せました。小京都・千軒万戸とたたえられるほどに家々が並び、商人・工芸業者の他に各地から戦火を逃れて公家や連歌師などがやってきました。

 

 

義総がここまで七尾を発展させた手法として出自によらず有能な家臣はどんどん取り立て、重臣に据えたことでした。その代表が温井総貞、三宅総広といった家臣で、彼らは元々能登の在野にいた土豪に過ぎない存在でしたが、義総にその能力を買われ、当主の一字を拝領しています。

 




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ただ、義総の時代は家臣を上手く使い平和を保つことができていたのですが、彼本人が無くなるとカリスマ性が失われ、畠山家には不穏な空気が流れ始めます。

 

 

義総の後を継いだ、義続はお世辞にも言えない程・・・戦国大名の中でも上から数えた方がいいほどポンコツな大名でした。彼の治世下には一向一揆の活性化や義総と対立して国外追放されていた一族が挙兵したりと、義総時代には無理やり抑え込まれていた課題が噴出します。こんな時こそ、先代の遺した遺産を活用しながら家臣団の統率をしていかなければいけないのですが、義続は抑え込むどころか我関せず女色に走った結果、家臣同士の対立は限界突破。義総に取り立てられた新参の温井総貞と畠山譜代の筆頭であった遊佐続光の間で武力衝突を迎えます。

 

 


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遊佐続光は能登内外の勢力から支援勢力を仰いだため、七尾城下どころか七尾城までもが炎上する騒ぎとなったこの戦いは、結局は温井総貞の勝利に終わるものの、責任をとるかたちで畠山義続は隠居して息子・義綱に家督を譲り、総貞も隠居して出家しました。さらに一家臣が権力を握るのを防止するため1552年、畠山家臣たちの重臣によって運営される政治組織・畠山七人衆が発足。温井総貞をリーダーとする民主主義が展開される・・・はずでした。

 


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実際の所は発起人となった総貞の独断場であり温井一族の都合のいいように政権運営が行われるのは分かり切ったことでありました、戦の原因になった遊佐続光が義続の計らいにより能登に帰参したことで両者の火種は残したまま、当然総貞はこれを是とせず再び追放。すると畠山義続・義綱親子はただでさえ、家臣に政治主導権を奪われているうえ、その上当主が行った恩赦を家臣に無効にされ面子を潰された形になってしまいました。結果、義綱によって総貞は暗殺され畠山七人衆の解体を目論みます。

 

 

 

と思いきや、総貞の子・温井続宗が父の弔い合戦として挙兵。さらに、総貞の長年の友人だった三宅総広もこれに合流する形となり、他の畠山一族を総大将に据え、能登畠山家に宣戦布告をしかけたのです。今度は温井側が一向一揆と結びつき、この戦いではなんと能登で5年にもわたる大規模な戦が展開されました。というのは畠山軍と反乱軍の力は歴然であり、最初の戦いで総大将以下、続宗も総広も討死してしまうのですが、いきなりリーダーを失ったことで反乱軍は各地へ逃れそれぞれがゲリラ化して隙あらば七尾城侵攻を目論む泥沼の展開となってしまったのです。最終的には一向一揆が主体となり能登侵略を狙っていたのですが、これを迎撃し打ち破ったのが畠山七人衆の生き残り、長続連でした。

 



                          

長氏も温井氏と同じく能登の一国衆に過ぎなかったのですが、義続の時代に才覚を現した温井氏よりも新参の家臣でありました。総貞の反乱(弘治の内乱)を討伐したことで能登は再び平和を取り戻したかに思えましたが、この戦いではほとんど活躍しなかった義綱本人が「温井一派を追い出したのは俺のおかげ」と奢るようになり、総貞暗殺より前から進めていた当主の権力増大を再開させてしまいます。

 

 

これでは畠山家臣は何のために温井一派を討伐したのか分かりません。それまでの内政実績に問わず、義綱・義続の都合のいい家臣だけが持ち上げられるのも問題でした。これを受けて今度は遊佐続光と長続連が結託し、1566年家臣たちのクーデターにより義続・義綱親子を追放し、義綱の嫡男・次郎丸(畠山義慶)を当主に据え、今度は遊佐続光と長続連による傀儡政権が誕生するのです。ところが、義綱の息子たちも父や祖父たちの復権を狙って画策していたのがばれたのか天正4年、6年に立て続けに家臣たちに暗殺され、最終的にわずか4歳の春王丸が当主に就く異常事態となっておりました。温井・三宅氏らかつての畠山旧臣もいつのまにか帰参し、それに反対する勢力は長・遊佐の両名によって討伐か粛清の憂き目にあっています。

 



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七尾城はかつてないまでに不安定な政情を迎えていました。こういう時に限って外敵が襲来するもの。1576年、上杉謙信が七尾城を落とすべく能登に侵攻します。

 

 

 

 



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大義名分を重視する謙信の言い分はこうでした。

 

 

家臣たちに追放された畠山義続を救うため、義続の末子・義春を上杉家臣・上条政繁の養子とした。これから政繁・義春を畠山当主に据えるべく、七尾を専横する家臣たちに成敗を加える。

 

 

自分たちの傀儡になるような当主ガチャ回し続けていたら、運営が制限しかけてきたと・・・。

 

 

当然、畠山家臣たちは謙信に対抗すべく団結、義総が築いた七尾城の堅牢さもあり、一度は謙信の軍を撃退します。しかし、続連の焦土戦術や上杉軍の各地の城を落とし各地で収奪したことで能登は一気に疲弊してしまいました。

 

 

 

翌年、2万の兵で襲来した上杉軍。領地の回復も冷めやらぬまま面食らった続連は城下や能登の領民たちを半ば強引に七尾城に籠らせ15000の兵力で上杉軍に対抗したのです。

 

これが続連の誤算でした。本来の収容を超えるキャパシティの人間を七尾城に押し込んだことで、下水システムが崩壊。瞬く間に城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちはもちろん、巻き込まれただけの領民たちまでもがひどい下痢と感染症により次々と命を落とす地獄絵図が起きたのです。戦国時代のダイヤモンド〇リンス号はここに誕生した!

 

 



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ここで降伏するならまだ救いはあったでしょう。疫病で次々と領民が死んでいく状況であっても続連はまだ上杉軍への徹底抗戦を呼びかけます。最早意地の世界でしょう。しかし、ついには続連の切り札であった春王丸までもがこの疫病に感染し、命を落としてしまいました。




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何のために戦うのか分からなくなった籠城軍、これ以上無駄な犠牲者を出したくなかったのか、先代先々代から連綿と続く権力闘争に嫌気が差したのか、遊佐続光は長続連を暗殺。上杉謙信の降伏します。




 

 

領民を死に至らしめた憎悪は大きかったのか、その罪は続連のみならず一緒に籠城していた息子や弟、その子、孫・・・14人が一夜のうちに殺されました。そしてその次に続連の家臣、交友のあったものは皆殺され、その数は100を裕に超えました。長一族で生き残ったのは、ひそかに城を抜け出していた続連の次男・連龍とまだ赤ん坊だった菊末丸のみ。

 

 

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続連も何の手もうってなかったわけではありません。実は義綱を追放した時から、既に中央への情報をかかすことなく、絶賛勢力拡大中だった織田信長の存在を認識しています。上杉軍の攻撃を受けた時、次男・連龍を織田軍の下に遣わし救援要請を出していたのです。もし連龍と織田軍の援軍が間に合っていたら七尾の歴史はまた違ったものになっていたかもしれません。そして悪魔に魂を売り渡し方のように連龍の壮大な復讐劇が始まるのですがそれはまた別の話。







 

 

千軒万戸と謡われた日本随一の大都市・七尾はわずか30年で一向一揆と盗賊がうろつく日本で最も危険な土地へと変貌を遂げたのです。その後入ってきた前田家により少しずつ能登は復興していくのですが、本格的な復興をとげるのは七尾城の悲劇から50年以上後の利常の時代を待たなければいけませんでしたし、未だ七尾は義総時代の栄光を取り戻しているのでしょうか・・・。

 

 

 

(管理人の感想)

コロナウイルスと日本政府という連動する形で長続連を悪役として描いています。本来は遊佐続光の方が何倍も問題児なのですが、彼は佞臣というイメージが元からあるので続連をメインに据えました。領民に降伏を認めず疫病で死人続出でも徹底抗戦を呼びかけるあたりは今の議員とそうかわらないかも。続連は一族や部下皆殺しというあまりにも重すぎる報いを受けましたが、現代日本ではそのような凄惨な事件が繰り返されるのでしょうか・・・?