家康の天下統一の総仕上げをした人物は古くから家康を支えた三河武士たちでも、知略冴えわたる参謀たちでもなく2人の坊主たちでした。このうち金地院崇伝は流石腹黒狸に気に入られた男といいますか、聖職者とはとても思えないほどに権利欲と政治闘争に明け暮れた人物であります。崇伝は太原雪斎、安国寺恵瓊と並び「黒衣の宰相」の異名をとる人物です。他の時代には足利義持に仕えた満斉などキャラの濃い人物が勢ぞろいですね。





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江戸幕府初期の実力者であり、幕府初期の法律の制定に大きくかかわります。武家諸法度やら禁中並公家諸法度果ては寺院諸法度の策定は勿論、日本史史上最大の言いがかりとして名高い方広寺の鐘など歴史漫画にも日本史の教科書にも必ず取り上げられる事件には必ず崇伝の影が見え隠れします。後世の受験生を苦しませやがって・・・許さんぞ!その他朱印船貿易に必要な朱印状の発行やキリシタンの取り締まりの総監督を担います。一人の坊主が引き受けられるとは思えないレベルの権力の集中っぷりですね。

 

 


ここまで家康に重用されたのは彼の出自に起因します。崇伝の伯父は室町幕府の高官・一色藤長。義輝・義昭に仕え、細川藤孝らと共に幕府再興を目指しましたが叶わず、信長と義昭との対立の中でひっそりと政界からフェードアウトしていった人物です。崇伝が物心ついたころには既に幕府は空中分解しており、将軍・義昭は毛利家を頼って中国地方、藤長も義昭と別れ細川家に食客扱いとなっていたので、武将としての夢は絶たれており、幼い頃から仏の道に入って研鑽を積みました。








 

その結果、わずか36歳で南禅寺の住職に就任します。南禅寺は臨済宗の寺の中で最高格に位置し、今でいう大学の学長か名誉教授ぐらいにこの年になっているのだからその聡明さが分かります。

 

で、この頭脳明晰さが家康の耳にも入り、1608年西笑承兌の推薦で駿府に招かれ、宗教顧問に就任します。安定した政権のためには多くのブレーンたちの意見を聞きながら法律を作っていく必要がありますから、家康は崇伝以外の日本の有識者たちを手元に集めていきました。林羅山、ウィリアムアダムス・・・そして彼のライバルとなる南光坊天海です。天海は前半生が謎に包まれている天台宗の僧侶。どことなくミステリアスな風格を漂わせる人物です。元武家の生まれで、無骨な気風である臨済宗の僧侶である崇伝とは性格に相いれなかったことが伺えます。天海がどう思っていたかは分かりませんが、崇伝はおそらく実績も出自も分かっていない天海に対抗心を燃やしていたことでしょう。

 

 

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その対立は家康の死後、贈り名に対する「神号一件」です。崇伝は「明神」を主張し、天海は「権現」にしようと主張します。前者は「稲荷大明神」とか「ちくわ大明神」とか上位の神様に用いられる尊称です。一方で、後者は仏様が仮の姿として日本の神様に扮して現れたものとする本地垂迹説による名前です。こちらは「金毘羅権現」や「愛宕権現」などがあたります。で結果はというと、日光の権現様というように天海案が勝利します。

 

というのも崇伝が「大御所様は生前「明神がいい」と言っていた!!」とする根拠を示すことができず、さらに秀吉を祀る豊国神社の名前が「豊国大明神」で同じく明神が被ってしまうからなのです。豊臣家を滅ぼしておきながら張本人が同じ神号を名乗るなんて世間に何を言われるか火を見るよりも明らかでしたから、縁起の面をとっても消去法で権現が選ばれたのでした。

 

 




面白くないのは崇伝です。しかし、武家の血が騒いでしまったのか、神号を決める会議中に天海を感情を荒立てて怒ってしまい、それを聞いていた秀忠に叱責を受けてしまいました。「宗教のトップたるものが何事か!」この件で、崇伝は宗教顧問のポストを外され、幕府は将軍の側近から老中たちによる合議制に変わっていきます。

 

政治の世界から干されてしまった崇伝。しかし、再び彼が矢面にたって采配を振るう機会がやってきます。それが紫衣事件。これは禁中並公家諸法度を巡る朝廷と幕府のいざこざです。「紫衣」とは寺の中でも特に優秀な僧だけが朝廷より賜ることのできる法衣ですが、実際には大名における官職みたいなもので、朝廷の重要な収入源の一つでありました。

 


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崇伝も37歳の時に後陽成天皇より紫衣を賜っています。彼の場合は僧侶としての実力を評価してのことだったので、廃課金する僧侶たちを嫉妬もとい許せなかったのでしょう。崇伝は秀忠や土井利勝ら幕府の有力者を巻き込み、朝廷に無断で紫衣を出すなと警告。これまで朝廷が与えていた紫衣も無効だとして僧侶たちから取り上げてしまったのでした。

 

 

当然、僧侶や朝廷からは大ブーイング。しかし、崇伝も負けてはいません。何とか紫衣を返してもらおうと直談判にやってきた僧侶たちをひっとらえて片っ端から島流しにしてしまいました。流罪になった僧侶の中には幕僚たちからも尊敬されている沢庵宗彭らもおり、やりすぎだとの声が幕府内からも上がります。朝廷に至っては完全に堪忍袋の緒が切れて後水尾天皇は怒りの無断退位。何と娘に皇位を譲り、900年間破られることのなかった女性天皇が誕生したのです。さらには、秀忠の娘・和子との間に生まれた男子が夭逝してしまったため、側室との子が天皇にならなければ女系天皇か皇系断絶にするぞと無言の圧力を幕府にかけてきました。

 

 

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ここまでの朝廷の強気な態度に幕府も流石に日和ります。ここでも天海が仲介役として登場。元々僧たちの流罪に介入して比較的緩い処置に抑えた挙句、秀忠の死後すぐに彼らの流罪を取り下げています。(というか、天海がやらかした人たちの赦免を出す立場だった)

 

三代将軍・家光も武家タイプとの崇伝とは馬が合わず、天海と共に朝廷との対立を解消する方向に走ります。結局、紫衣の賜与は「幕府に許可を得てから実施せよ」から「京都所司代に連絡していれば朝廷主導で行ってよい」ぐらいに落ち着きますので崇伝の狙いは完全に退けられ朝廷側の事実上の勝利となったのです。

 

紫衣事件が決着を見せ始めた頃、崇伝は体調を崩し江戸の自宅にて65歳にて亡くなります。数多くの政治事件に関わった、特に宗教関連では断固とした立場で臨んだため、彼の評判はボロクソで「天魔外道」なんてすごい蔑称がついています。あの比叡山を焼いた信長ですら「第六天魔王」しかも自称ですからね・・・。信長なんかよりもずっと僧侶たちから敵視されておりました。

 

 

 

管理人の感想

天魔外道ならまだ中二病っぽくてかっこいいですが酷い場合には「大欲山気根院僭上寺悪国師」なんて蔑称もあります。いくらなんでも嫌われすぎでしょ・・・。実際には遺言は「南禅寺のことを考えるくらいなら江戸が平和になるように努力せよ」と清廉潔白な性格だったようです。まぁ高い地位につく超エリートだからこそボロクソに叩かれるのは日本が平和な時代になったことの証なのかもしれませんね。








政僧・天海と崇伝
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高僧名僧伝・以心崇伝
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近世の朝廷制度と朝幕関係
和明, 村
東京大学出版会
2013-02-28


後水尾天皇 (中公文庫)
熊倉 功夫
中央公論新社
2010-11-20