室町幕府末期においても幕府の力が完全に失われたわけではありませんでした。それはその辺の大名と同じく京周辺の領地しか影響力はなかったものの限られた区域において将軍の支配力は有効だったのです。














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室町幕府の政所とは幕府の財政や領地に関する訴訟を取り扱う役所です。この時代、土地の権利や殺人事件など揉め事が起きると農民たちは鉄火起請・湯起請というハードな方法で解決していました。これらは熱湯の中に手を突っ込む、焼けた鉄を掴むといった大けが不可避な強引な解決法であり、負けた側は村人たちから裁判に負けた代償として殺され、勝ったとしても一生後遺症が残るであろう大けがを負う参加者は必ず地獄を見ると言う代物。





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毎回毎回揉め事でそんなことをしていては怪我人続出で社会が成り立ちませんから、時代の領主は揉め事に積極的に介入して裁判による解決を目指しました。

 


室町仕組み



 

ということで、奉行所での裁判を行うことが当時の領主の大事な務めです。ただ、今の裁判と少し違う所は、訴え出る裁判所はどこにお願いしてもよかったという所です。今なら住んでいる地域の地方裁判所→高等裁判所→最高裁判所と順を追っていきますが、この時代は京に住んでいても六角氏の奉行所に訴え出てもいいし、三好氏の奉行所に訴え出てもよかったのです。ただ、どうせなら自分に有利な判決を出してくれるところにお願いしたいところ。奉行所も訴訟を請け負う人たちがそのまんま支配領地に直結しますので、奉行所の及ぶ範囲が当時の大名たちの支配限界であったといえます。




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当然この裁判所は幕府にも存在し政所という名前で伊勢氏が代々そこの長官を務めてきました。13代・足利義輝の時代まではちゃんと機能していました。そういう意味では応仁の乱後も幕府の権威は残っていたともいえますね。

 

伊勢氏とは伊勢貞親ら伊勢新九郎など著名な人物が複数いる幕府の重要ポジ。訴訟の数があまりにも多いため、土地の契約書を確認したいとか町民同士の争いとか些細な内容であれば、将軍には報告されず伊勢氏が将軍から一部決裁権を譲渡されることで裁判の効率化を図っていましたが、時代が下るにつれこの伊勢氏の裁量権がどんどん増大し、将軍家の権力を上回るようになっていました。




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応仁の乱以降、将軍の座は義稙と義澄、そして義晴が畿内の権力闘争に連動して京を出たり入ったりを繰り返していましたが、幕府の相談窓口である政所が京を出ていくわけにもいかず、基本的には伊勢氏は京にとどまり続けました。

 

戦国前期における伊勢氏の行動といえば、関東入領と山城国一揆への介入でしょう。

当時は長引く戦乱に疲弊した農民や国衆たちがぶちぎれて山城国一揆を起こしており、他の大名家の支配を許さない状態だったのです。そこで幕府の財源を確保するため、伊勢氏を介して御料国化を推し進めます。結果的には一揆勢に自治権を認める代わりに徴収した税の一部を幕府に納めさせ落としどころとしたのです。


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もう一方は関東入領。この時代の関東は、鎌倉公方と幕府の溝は決定的なものになっており、もはや幕府の裁量の届かない状態になっていました。この問題に対処するため、幕府は足利義政の兄・政知を派遣していますが、あまりにも関東の治安が修羅の国すぎて関東はおろか鎌倉にすら入れない始末。仕方なく伊豆を拠点とし堀越公方と名乗ることにしました。

 

この堀越公方ですが、政知の時はともかく、子の代になるとやっぱり御家騒動が勃発。子の収拾をつけるためにやはり京から伊勢氏が派遣されます。伊勢新九郎はその一人で、問題の解決後、勢いづいた伊勢氏は伊豆・相模を領国化。北条氏と名を変え関東最大の支配者としてのし上がっていきます。

 

当然こういった経緯から北条家と伊勢氏はなんだかんだ仲の良い関係であることが分かります。氏康の代には北条氏は古河公方を傀儡化に成功していますが、トップが足利家、メインの政治を担うのが伊勢(北条氏)という関係は戦国期よりも前から続いてきたことなので、ある意味北条氏の野望は関東を古き時代の政治体制に戻すという構想があったのかもしれません。





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さて、1535年先代政所執事の伊勢貞忠が死去。後任として北条氏に仕えていた伊勢氏から貞孝が後任として迎え入れられます。しかし、安定した治世になりつつあった北条氏と違い京は魔境と化していたのです。

 

 

 

 

 

だいたい細川晴元が悪い。

 

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その結果、義晴と長慶は対立。将軍・義晴が京から追い出される事態が起きていました。ただ、前述した幕府の統治機能までが移転してしまうと京の住民の信頼が失われてしまいます。政争で窓口の場所が物理的にころころ変わる役所なんて真似はできないですからね。

 

ということで、貞孝は義晴に同行せず京にとどまり続けます。京の実権を握った三好長慶にも通じるようになります。自分が生き残るのも当然ですが、将軍の京復帰のために権力者と通じる必要があったのですね(長慶側も義晴を和解できれば帰還に何も問題なかった)。

 










 

こうして、不安定ながらも何とか形を保っていた三好政権ですが、将軍の座が義晴から義輝になるとそのパワーバランスは徐々に揺らぎ始めます。

 

義輝は将軍親政を目指す当時にしては過激派。それまでの室町幕府は様々な利権が絡まったいわば現代の派閥政治のような感じで両者間の緊張が保たれていましたが、これらの諸勢力を抑え義輝一強体制を作り出そうとしたのです。

 

そして目をつけられたのが、貞孝でした。というのが、上述した裁判の裁量権がどんどん増大していったことが大きいでしょう。基本的に将軍が携わる裁判の内容は税の徴収権争いなどかなりの規模のものになります。ただ、大多数の訴訟は住民同士の小競り合いですから捌く件数は圧倒的に伊勢氏の方が多い。すると、経験がものをいうようになり、次第に将軍が行う裁判沙汰にも伊勢氏がアドバイスという名の介入を行ってくるようになりました。




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これが将軍や周囲の者がやる気のない無能であればハイハイと従っていればよかったでしょう。しかし行動派の義輝からすれば、排除したい存在になっていたのです。

 





 

1562年、義輝は六角氏が京へ進行してきた際にこれまで何かと対立してきた長慶(当時は六角氏と交戦中)に肩入れし、貞孝が六角氏との交戦中も通常通り裁判を行っていたことを「六角氏と通じているからだ」と吹き込みます。また、同時期に政所代のナンバー2蜷川氏にも貞孝の不祥事を暴露され、貞孝は義輝・長慶の両名から更迭処分を受け侍所執事の座を追われてしまいました。伊勢氏の侍所失脚により、伊勢貞継以来100年に渡って続いてきた侍所支配は終焉を迎えました。





 

貞孝はこれを不当とし元のポジションに戻るため船岡山にて挙兵したのですが、長慶の命により松永久秀の鎮圧軍が差し向けられ、息子共々あっさりと討死にしてしまったのでした。

 

 

 

 

 

貞孝の滅亡により、義輝は新たな政所執事として摂津晴門を指名。摂津氏は平安期から儒学の家として名を馳せてきた中原氏の庶流の家。晴門は各地の神社、地方役人とのパイプが強い義輝の側近です。

 

ところが、晴門の就任により義輝の専制政治、幕府による寺社荘園の横領が加速化することを恐れた三好側は義輝に再び敵意を見出すようになり、長慶の死後、永禄の変により義輝も殺害されてしまいました。




 

晴門は尚も侍所執事を務めましたが、義輝のバックを失い風見鶏行為を繰り返していた晴門は義昭によって長官職を追い出されてしまいました。

 

結果、晴門の後は貞孝の孫、貞為、貞興ら伊勢氏が執事に執事職に復帰するものの彼らはまだ子供。侍所の仕事などできるはずもなく、侍所執事は事実上崩壊。このシステムの終焉を以てある意味では室町幕府は一度滅亡を迎えたのでした。

 

 

 

(管理人の感想)

伊勢氏からすれば将軍を神輿に担ぎ、利権をかっさらっていけば何でもよかったため、将軍の地位を脅かすこともなかったことでしょう。貞孝粛清の結果、侍所が崩壊し、信長が殿中御掟を定めて旧幕府の政治システムが復活しなかったことを見ると、義輝がしでかしたやらかし案件といえるかもしれません。