「刺激性の強いものを子供に見せるな」と叫ばれ、新聞や民放のような自分たちが一番トップにいるんだと揺るぎない自信を見せるマスメディアは無菌室の如く「大人向け」の内容を排除してきました。エロ、グロ、ナンセンスは最早地上波や全国紙においてみることはありません。それは子供たちにとっていいものなのか?果たして無菌室のまま育った人間が急激な刺激の強いものに触れたとたんどうなるか・・・?今回はその一例をご紹介します。





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毛利家がまだ安芸の一国衆、毛利元就が毛利家の家督を継がず家老の立場にいた時代。

 

毛利家の当主は酒が原因で次々と早死にし、家督は2歳の元就の甥、幸松丸が継ぎました。当然幼い若君に政治が務まるはずもなく、元就は後見役として毛利家の舵とりを任されることになります。

 

当主が次々と亡くなり、前当主の子供が幸松丸しかいないとなるとこの若君は手塩にかけられて育てられたことでしょう。年貢の管理や領内でのトラブルも元就ら側近らが担当しました。

 

 

 

 

 

 

しかし、お飾り当主であっても大事な儀礼の場には参加しなければいけません。本人が何かするという訳では無いのですが、当主自身がいることに意味があるという場合です。

 

 

毛利家の場合は戦の際の首実検がそれでした。首実検とは討ち取った敵将の首について誰の手柄か確認し、死者を弔う儀式。命のやり取りを行う武士にとっては何よりも神聖な場でありました。1523年、毛利元就は当時従属していた尼子経久の命で、大内方の武将・蔵田房信・直信の鏡山城を攻めます。元就の計略により両名は自害に追い込まれるのですが戦後、首実検の場に当主・幸松丸を立ち会わせるか毛利家の間で議論になりました。










 

しかし、これから死ぬほど死体を見るのだからこれぐらい慣れておけと嫌がる幸松丸を押さえつけ無理やり生首を見せたため、幸松丸はそのまま発狂して死んでしまいました。




 

享年9。




 

幸松丸の死については元就が自身の家督を奪うための策略だと言われるケースが多いです。

しかし、当時の毛利家臣たちは「幸松丸は蔵田直信の怨念に祟られて死んだ」と考えました。直信は元就に「尼子方に寝返れば蔵田家の家督を譲ってもいいぞ」と持ちかけられており、鏡山城落城の契機となりました。しかし、元就の計略を恐れた経久は直信の降伏を認めず斬首してしまいました。それ故に騙された直信は怨念となって毛利家の幼子に襲い掛かってきたというのです。また、経久は幸松丸に鏡山城攻め出陣を強要したともいわれます。いくら本陣で控えているだけとはいえ、10にも満たない幼子に戦場を経験させるというのはあまりにも酷すぎます。また、幸松丸の死後次期後継者の揉めて尼子家から頻りに介入してきており、戦いから首実検に至る一連の流れは毛利家乗っ取りを企む経久の策略だったのかもしれません。




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幸松丸の死は経久の策略か元就の計略か・・・。真相は果たして・・・?