織田信行とは織田信長の弟である。

以上。

 
















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兄より優れた弟など存在しねぇ!!!

 

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信行は信長の兄弟の中でも最も有名な人物でしょう。信長とは同じ母を持つ、血のつながりが深い人物でした。記録によると、若い頃はうつけものと呼ばれ不良だった信長とは違い、品行方正な性格あり母・土田御前や織田家の家臣は信長に代わって信行が家督を継ぐことを望んでいました。

 

筆頭家老の林秀貞すらそれを望んでおり、父信秀が亡くなると、信長は父の葬儀に女の肝の着物を着て参列し、父の位牌に灰を手づから投げつけたことから、家臣らの信行待望論は加速化していくことになります。

 

 



父の死後、信行は末森城を継承します。末森城は当時の信秀の居城であり、これは父信秀が信行を次期当主として考えていたのかもしれません。さらに柴田勝家、佐久間盛重といった織田家の軍事担当の多くが信行についたことで、信行ら一派は「これ、そのまま信長を倒して家督奪えるんじゃね?」と考えるようになります。

 



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ただ、信行はすぐには行動に移していません。尾張は他に大和織田家の織田信友や、信長の叔父にあたる信光(信光自身は信長支持だったが、家臣らは信長を倒そうと考えている節があった)らの勢力によって、信長の権力はまだまだ不安定極まりないものでした。今この時点で兄を倒しても、漁夫の利で他の親戚に弱ったところを攻められて滅ぼされるのが関の山だと容易に予想できたからです。




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信行は兄と共に、信友を討ち、また信光が暗殺されてから行動し始めます。1554年、名前を信達(達は大和織田家の当主の通字)と名乗り官途名も「弾正忠」と信長と同じものを自称します、完全に信長を不要と判断した行動でした。信長への対立を露わにします。信長も斯波義銀を擁立して、自身の正当性を主張しています。

 



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1556年、両者の対立は軍事衝突に発展します。きっかけはお隣の大名・斎藤道三が息子・義龍のクーデターに敗れ命を落としたことでした。道三は信長の心強い支援者であり、それを失い逆に斎藤家が敵対に転じたことから、信行は勝利を確信したのでしょう。

 

 

 


稲生の戦いと呼ばれる、兄弟決戦では信長700に対し、信行の兵は1700で、味方には柴田勝家や林秀貞らと圧倒的に有利な立場でありました。特に柴田勝家の猛攻で、信長本陣に攻め入った時には信長の前にわずか40人しかいないという大ピンチに陥ります。



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しかし、当時では新参だった勇将・森可成の活躍と信長本人の気迫の前に柴田軍は撤退、勢いづいた信長軍の反撃により信行方は450の兵を失い敗退します。

 

 

 

籠城戦にまで追い詰められた信行ですが、ここで母・土田御前からの待ったがかかります。地を分けた兄弟、殺し合いへの発展は何としても避けたかったのでしょう。信長も母の意見には逆らえず、一先ずは矛を収めることにしました。

 

 

 

ここで信行が心を入れ替え信長に従っていれば悲劇は起きなかったでしょう。信行は柴田勝家を始め周囲の家臣らが、信長に許されたことに感謝し軒並み信長に翻ったことに気づきませんでした、そのため二回目三回目の謀反の計画を信長に知られるところになり、信長家臣・河尻秀隆によって清州城に招き入れられそこで討ち取られることになります。享年22。子供の頃は神童として信長を超える存在としてもてはやされましたが、周囲の情勢変化に気づかず、謀反という危険な道を選択し続けた空気の読めなさでは、仮に謀反が成功していても今川義元や斎藤義龍の侵攻を食い止めることはできなかったかもしれません。

 

 


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ちなみに、謀反人は一族皆殺しにされてもおかしくなかったこの時代、信長は信行の子(当時は赤子)を許すどころか、引き取り元服すると所領を与えて一武将として扱うようになります。信長の心の広さには驚くものがありますが、流石に子供側が「織田方」を名乗るのは遠慮し、津田信澄と名乗りました。




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しかし、信澄もまた、本能寺の変後には明智光秀への協力を疑われ、織田家臣に誅殺させられる悲劇を迎えます。この事件については、「だって親父は信長に謀反起こして逆に殺されてるしねぇ・・・」と父の風評被害によるものが大きいと考えられます。謀反の罪は息子の代になっても代償を払うことになったのです。











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2017-08-02