織田信長には多くの兄弟・子息がいましたが、意外にもその多くがパッとしない人物でした。


織田一族で有能ランキングを作ってみれば信包や有楽が結構上位陣に来るんじゃないかというぐらい人材がパッとしません。

中でも特にこの人物は本当に戦国時代に生きていたのか・・・?というような人物がいます。織田信照、織田信秀の9男です。







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信照は1546年の生まれだと伝わります。母は中根氏の出とされますが、本名はわかりません。


「尾張記」によれば、信照の母の実家は商家の家で、信秀躍進の大きな資金源となった熱田神宮に出入りする地元の有力者だったようです。また、彼女は非常に美しい美貌を持っていたとされ、その美しさは尾張一といわれました。




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その美貌を噂に聞いた信秀は彼女の両親の下に赴き、側室に貰い受けるよう頼みこみました。しかし、両親に断られてしまったため、怒った信秀はある日、彼女を強引に拉致して居城に持ち帰り手籠めにしてしまいました。それで生まれたのが信照といいます。


時代が時代なので、そういった出来事も無くは無いでしょうが、10万石クラスの大名になると外聞にもかかわってくるでしょうから、当時の信秀にしては大名の格に似合わない破廉恥な出来事だったとも言えます。「商家の娘を強引に拉致」とボロクソに歴史書に書かれる信秀が当時から嫌われていたのかもしれません。



しかし、子供の信照はもっとボロクソに書かれています。
歴史書には「天性魯鈍の人」と書かれています。魯鈍(ろどん)とは字のとおり「軽率で愚かな人」を指します。また軽い知的障害の人間も魯鈍と称する場合もあるので、信照はなんというかアレな人だったのかもしれません。




逸話としてはこんなものがあります。


信照はよく人に「私は馬を50頭も持っている」と豪語していました。しかし実際には馬を1頭しか持っておらず、信照は辻褄を合わせるため下人に命じて、一頭の馬を1日中洗わせ続けました。1日中、馬を洗わないといけないほどたくさん持っているアピールをしたのでしょうが、そんな所で見えを張る理由が分からないし、記録に「馬を1頭しか持っていなかった」と書かれてしまっている以上、信照の嘘はバレバレで意味のないことだったのです。何か馬鹿だなぁと思う以上に悲しくなってくるエピソードであります。



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近年ではよく「現代社会でうまくやっていくことができない」代表として取沙汰される発達障害ですが、これは現代社会が複雑化して、社会から問われる能力についていけない人間が増えたことによるものも大きいです。相対的な発達障害が増えたとも言えます。

一方で、記録に残る信照の行動は絶対的な発達障害であり、相当重度だったと考えられます。ほとんど城から出ることなく過ごしていたとされ現代でいう「引きこもり」の元祖は彼かもしれません。また家庭環境も不遇で、父・信秀は早くも流行り病で病死し、母・中根氏も信秀が死ぬと隣国の大名・水野信元に側室として嫁いでいってしまいました。


両親のいない境遇を不憫に思ったのか、部下に非常に厳しい能力主義の信長に特に嫌われることもなく1579年には沓掛城(梁田広正が城主をしていたが病死して城主不在となっていた)を与えられています。

1581年の京都御馬揃えは信照の人生で一番の晴れ舞台でした。信長一門衆として出陣した記録が残っています。しかし、その後武将として活躍することなく翌年には頼みの兄が本能寺で横死。信雄には一門衆として城を与えられるも、唯一参加した小牧長久手の戦い(居城を落とされただけ)の後、信雄改易に伴い次第に忘れ去られた存在になっていきました。そして関ヶ原の戦いの後、1610年にひっそりと亡くなります。




一説には、信雄改易後、本多忠勝の妹を娶り中根忠実と名を変えて本多忠勝に仕えたという説があります。「中根」の姓ということから信照が織田姓や織田一族を捨てたのかもしれませんが、記録によればその後の忠実は忠勝の付家老としてよく仕え、桑名城の城下町整備に尽力したとされており、これまでの魯鈍とは打って変わって有能な人物となっています。



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中根と信照はただの他人の空似なのでしょうか?それとも忠勝は織田時代には誰も見いだせなかった信照の光る何かをうまく活かすことができたのでしょうか?