安藤守就は、美濃の有力国衆であった美濃三人衆の一員です。生まれた年についてはあまり分かっていませんが、同じく三人衆の稲葉一鉄と同じ年齢ぐらいだと考えられており、土岐氏→斎藤道三の国盗り期においても守就は活動していたと考えられます。









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道三の前、土岐家の活躍についてはこちらを参照

 

 

 

安藤家のおこり

 

 

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道三の後、息子の義龍の代になっても斎藤家に仕え続けており、斎藤家の中核的存在を担っていました。天文23(1554)には、信長の援軍として斎藤氏から守就が派遣されています。また、義龍が主導となって行動した美濃の寺社改革においても寺社奉行として守就がその差配を行っています。

 



 

駄目主君を見限る

 

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しかし、義龍の死後後を継いだ龍興は年少で経験に乏しく、対照的に今川氏を破った織田信長の勢力拡大によって斎藤氏は次第に勢力を脅かされるようになります。

 

龍興は酒色にふけり、政務を重臣に任せがちでした。それゆえ斎藤家の行く末を心配した多くの美濃出身の人間が織田方に靡き始めます。森可成や堀秀政、金森長近や山内一豊といった人物がそれです。この事態を危惧した守就をはじめとする龍興の重臣は主君へしばしば諫言を行いましたが聞き入れられることはなく、次第に苛立ちを募らせていきました。

 

この平和ボケした主君に喝を入れるべく、家臣の竹中半兵衛がクーデターを決行。わずか16人で斎藤家の本拠地、稲葉山城を乗っ取ります。娘が半兵衛に嫁いでいたため、守就もこのクーデターに参加していました。

 









この事態は斎藤家中で大混乱になり、やがて美濃外部の大名に斎藤家の弱りっぷりを見せてしまう結果になりました。しかし、当の龍興が心を入れ替えることがなかったため、半兵衛や守就は諦め、主君に城を明け渡すと在野に下ることになります。主君を諫められなかった守就は無力さからか、出家して「無用斎」と名乗っています。

 

 

1567年、信長の美濃攻勢の圧力が本格的になると、守就を始めとした美濃三人衆もついに信長の軍門に下ることを決断。これを受けて信長はついに兵を稲葉山城に差し向け、敗れた龍興は美濃を追われることになります。

 

 




 

織田軍で貢献するも・・・

 

 

それ以降は織田家臣として各地を転戦しました。斎藤時代の成り行きからか美濃三人衆一括りにて活動することが多くありました。既に年齢は6070の高齢でしたが、ベテラン勢の活躍は織田軍にとっても頼もしい存在であり、柴田や佐久間に次ぐ地位についています。

 

が、1580年信長は突如として守就とその子・尚就を追放処分にしました。理由は10年前に守就が武田氏と内通しようとしたとのこと。しかし、本当に内通していたのなら当時に処罰していればいいのに10年経った昔のことを引き合いに出されるのは守就にとって驚愕であり受け入れがたい出来事でした。同じ時期に佐久間信盛や林秀貞といった織田の老重臣の面々が追放処分になっており、信長から信忠への世代交代を前に織田家の人員整理をしたかったのかもしれません。とはいえ、リストラの対象になったい人物はたまったものではありませんが。


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まさかの裏切り

 

 








しかし、2年後守就にとってもチャンスが回ってきます。1582年、本能寺の変勃発に伴い織田信長・信忠が横死し、織田一強体制が崩れます。当時の美濃は信忠が治めており、殿様の失った美濃は大混乱に陥りました。

 

期を見るに敏は戦国武将としてのたしなみ、守就も一族郎党に呼び掛けて挙兵し、旧領奪回を目指しました。

 

 



が、まさかの守就を討伐にやってきたのはかつての三人衆仲間だった稲葉一鉄。彼も80を超えた老齢でしたが、稲葉氏も本能寺の変を期に美濃勢力の拡大を狙っており、領土が近い安藤氏は邪魔者でしかありませんでした。三人衆とは何だったのかという一鉄の攻撃により安藤軍は敗北。守就は子や孫と同じく敗死してしまいます。

 

 

 

長年戦場を駆け抜けてきたベテランの将が最後の最期で元同僚に足元をすくわれてしまったのは戦国時代の厳しさというかなんというか・・・