「麒麟がくる」15話でまさかの登場を果たした日根野弘就さん。
「おんな城主直虎」でも名前が登場していたので、戦国物では2作連続の出演になりますね。

マイナーといえばマイナー知る人ぞ知るこの人ですが、斎藤家が滅んだ後も家を次々と変え仕えた先々が
大変な運命に見舞われるも本人は何とか生きながらえるという異能生存体でした。

ということで、今回は日根野弘就について解説します。

hineno

日根野弘就は1518年美濃に生まれた下級武士の子で、父の代に和泉国から美濃に移住してきた一族のようです。弘就が初めに記録が出てくるのは、義龍家臣として。既に40近いおっさんになっていた弘就が任されたのは
作中でも描かれた斎藤孫四郎、喜平次の暗殺。斎藤家で勃発した御家騒動を巡って義龍の弟たちを手にかける実行犯として暗躍したのです。





義龍がクーデターにより斎藤氏の実権を握ると弘就も引き続き重用され、斎藤家の六家老と呼ばれるまでに上り詰めます。他の六家老には稲葉一鉄など三人衆らも含まれています。しかし、下級から出世した弘就は他の国衆出身の斎藤家臣より嫉妬の対象になりあまり仲がよくなかったとか。義龍が存命中は水面下の対立ですんだのですが、義龍が死に息子の龍興が継ぐとその対立は表面化。斎藤家の混乱もあり、斎藤家臣団が次々と織田方へ寝返り始めました。

 

弘就はその中でも織田氏へのけん制として自ら出兵したり、浅井家との同盟を取り付けたりと斎藤家を支えるため立ち回るのですが、三人衆の離反や竹中半兵衛の乗っ取り事件を期に斎藤家の衰退は決定的に。

 




1567年、織田信長の侵攻により斎藤家は滅亡。これにより弘就は領地を失い放浪の身となりました。

 

 



 

 

斎藤家滅亡後、多くの美濃衆が信長に吸収される中、「主君の仇に味方せず」と織田家に仕えなかった日根野一族は織田と対立していた今川氏真に仕えました。斎藤道三の時代は今川家との交流も深めていたので、その繋がりで今川家がよい転職先になったことなのかもしれませんね。

ここで弘就は石川数正ら徳川家臣と戦い一進一退の攻防を繰り広げます。しかし、氏真に仕えたのは今川家が徳川・武田に攻め込まれている風前の灯火の時期でした。結局は今川家は滅び、仕えたその年に再び流浪の身となります。






 

次に仕えたのは浅井長政。しかし、その年のうちに浅井家を去り、京に移り住むとかつての主君・斎藤龍興と再会します。弘就は龍興の勧めで一向一揆に加わりました。龍興は本願寺組んで、越前と長島の両面から一向一揆で織田家を攻撃する計画を立てており、龍興は越前一向一揆、弘就は長島一向一揆に参戦して信長と戦いました。


 

が、両一揆とも信長に鎮圧、殲滅される形となり日根野一族は犠牲を払いながらも長島を脱出しました。

 

 

 

 

この10年で弘就は斎藤→今川→浅井→一向一揆と4つの家に仕え、その悉くが織田家(その同盟者)との抗争により滅ぼされています。なんというキングボンビー。弘就もここら辺になると「むしろ私が織田家に仕えた方が信長に対する復讐になるのでは・・・?」と考え、長年敵対してきた信長に降伏し仕官しました。美濃の地に所領を与えられます。

 

375399a92638205cdff3f6a850f498ec_400











それで10年も経たない間に織田信長が死に、織田家が空中分解するのだから笑えない。

 








 

 

信長の死後は、遠藤慶隆や池田恒興と行動を共にし、豊臣秀吉に仕え各地を転戦します。弘就の人となりにも問題があったらしく、3回ほど刀傷沙汰を起こし、豊臣家を出奔、その後復帰することを許されています。この時、弘就は60を超えた老将ですから、かなり気難しい性格だったのかもしれません。


 

なんだかんだ、豊臣家ではうまくやれてた弘就でしたが、弘就の運の無さなのか、それとも見る目が無いだけなのか、やはり仕えた豊臣家も没落し滅亡の運命を辿るのですからもはや何も言うまい。

 

秀吉政権時代では自身は16000石の大名に、子の高吉は38000石の出世しています。 

 

関ヶ原の戦いでは、日根野家は東軍に味方しようと考えていたようですが、弘就の負け運もここまできたら流石と言いますかやはり石田三成に味方していました。

 


24594


 

 

戦後、西軍加担を咎められ改易されるのを避けるため、弘就は証拠を隠滅した後、自害しようと試みます。

三成からの書類を処分した後、弘就は屋敷の庭にて腹を切ります。


しかし、腹を切った後に処分していない書類のことを思い出します。部屋に戻り隠されていた三成からの書状を火中を破り捨てます。整理が終わった時には切腹して丸一日が立っていました。しばらくは家の者に「まだ死にそうにない」とつぶやいていましたが、
その夜急激に苦しみだし痛みの中自ら刀で首を刎ね悶死してしまいました。

 
死因、蜂窩織炎?享年85。


ヤバい(確信)。

 

まぁこの話は逸話であり確実な史料は見つかっていないのですが、弘就の人生を考えてみるとよく似た事件があったのかもしれませんね。

 

 

しかし、弘就の最後のあがきもむなしく、幕府には日根野家を「中立の立場」と判断し、減封処分されてしまいました。その後大名としての日根野家も後継問題のごたごたで大名としての資格を失い、家綱の代には改易されてしまいました。

 

 

最後の最期までついていない人生で涙を禁じ得ない・・・。






ところで日根野弘就は兜のデザイナーとして有名です。弘就は兜や鎧を自作しており、日根野兜なるものを愛用していました。この兜、丸っこい形をしていて前部分がはねるような形状をしています。鉄砲の弾を弾くのに非常に有用な形をしているそうで、実践的な装備として多くの武将に重宝されました。


後に徳川家康や真田幸村、井伊直政、立花宗茂といったそうそうたる武将がこの形状を採用していたんだとか。









(管理人の感想)
身辺整理してから自殺する人はこの世にごまんといますが、自殺してから身辺整理した人は弘就ぐらいなものでしょう。みんなもHDDの中身は気を付けよう(ゆうさくボイス)