1: 名無しさん@おーぷん 2019/01/05(土)19:21:22 ID:a6Y
ワンチャン許してもらえたと思う
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1570年、金ヶ崎の戦いで大敗した信長が自領の岐阜に戻る途中、銃の暗殺という魔の手に襲われました。わずか20mほどの距離から放たれた二発の銃弾は、幸いかすり傷程度ですみましたが、一歩間違えれば織田家の躍進劇もあっけなく終わり、その後の歴史も全く異なっていたかもしれません。
岐阜に帰郷した信長は、すぐに部下たちに徹底した犯人捜しを厳命します。この時の怒りようといったら、そりゃ自分を殺そうとしたんだから徹底的に始末するのは当たり前だと思いますが・・・
犯人は意外と見つからず3年がたち、やっと近江の磯野員昌の領地に逃れていた杉谷善住坊という男が捕縛されます。
フロイスの記録によると「ある仏僧」とだけ記録に残っています。すぐに尋問にかけられますが、彼の出自は全く記録に残っていません。
そもそも信長を撃った理由もはっきりとしていません。
信長に領地を追われた六角氏からの依頼という説が有力ですが、単なる信長への個人的な恨み説や鉄砲名人の腕試し説、賞金稼ぎ説など諸説あります。賞金稼ぎ感覚で殺される信長って軽すぎでしょ。
信長は3年もたったから怒りも忘れているかと思えばそうではなく、この不届き者を鋸引きの刑で処刑するように命じました。
鋸引きとは、生きたまま地中に埋めて顔だけ地上に出し、それを切れ味の悪い竹の鋸でギーコギーコと切断するもの。あまりにも残酷すぎて、処刑人すら何かの罰ゲームだろと思えるぐらいのこの刑罰は、意外とこれ以降も鋸引き刑に処された人物が登場します。
結局、杉谷善住坊が何者なのか他にどんなことをしたのかさっぱり分かりません。「信長を暗殺未遂して鋸引きにされた」というインパクトだけでその名を現在にまで伝えている人物なのです。
物騒な話だなぁ、仏僧だけに。
日本は昔から小さいものが大きいものを打ち負かすジャイアントキリングを好む傾向にありました。それは真田家と徳川家の関係然り、貴乃花と曙の一番然りです。スポーツの世界は「小さい体ながらも」大きな体の選手と同等の能力を持っていれば、それだけでもてはやされるのは日本人の性ともいえるでしょう。
小兵の戦いはこれまで先人がいかにして、体格差のアドバンテージに立ち向かってきたかその積み重ねだと思います。
今回紹介する竹内久盛という男は、柔道の源流・柔術を産み出した柔道界の伏義的な存在ですが、身長はなんと150cmほどしかありませんでした。今回は小人ながら戦場を生き抜いた武術家について解説します。