不定期更新 気になった武将や人物について取り上げたりおんj中心にまとめたりします

    2017年10月

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      は●まや哲●ニュースといった大手まとめブログに比べると歴史系のまとめブログってほとんどコメントつかないんですよね。1位のブログですら1記事につき10程度だし


    そんな中今月以降、私のブログでもコメントをつけてくれる方が増えてきました!
    これは常連が増えた証拠に違いない!(ポジティブな解釈)視聴者が楽しんでこその記事ですからね(どこかの啓発本に洗脳された目)今回は今までいただいたコメント返しをしていこうと思います。


    私も信長の野望の武将予想が好きです!
    第4段もお願いします!

    大志は城の数が創造に比べて減っており、武将よりも武将の妻が多く追加されてる可能性が高い。
    よって第4弾を予想できるほどの武将数が無さそうです。ただ第3弾で予想した八粕道為は登場するようです!見事予想的中です!やったぜ。




    忠長はシグルイで知っていましたが、グロテスクなので読むのをやめてしまいました、、、
    権力が関与する兄弟喧嘩は恐ろしいです。

    シグルイ自体グロ系の漫画ですね。アニメ化はしましたがグロすぎてR-15指定になって草まみれや。

    >権力が関与する兄弟喧嘩
    北のカリアゲ君「分かる」

    シグルイ 全15巻 完結セット (チャンピオンREDコミックス)

    山口 貴由
    秋田書店
    2010-11-22



    17年後にはきっとランキング1位になれていると思うので、頑張って続けてください。

    まだこのブログ初めて3か月、早くも更新頻度が減ってますね・・・



    オルガ暗殺に関しては鉄華団の服装したまま外で待ってるチャドが悪い
    あのあっけない死に方は、「銀河烈風バクシンガー」の左馬並に唐突でした。

    佐馬


    というか「鉄血のオルフェンズ」自体バクシンガーと同じ新選組がモデルなのでバクシンガーのリメイク作品ともいえるかもしれません。
    (脚本の暴走に視聴者は)たまらねぇぜハニハニ


    宗一族、同じ九州人として是非出てほしいです! 
    筑後、波多一族?の壱岐、それから宗一族の対馬は野望シリーズでも屈指の不遇令制国ですからね。なんとかしてもらいたいところです。

    「大志」のプレイ動画見る限り筑後に城一つしかないんですよね
    あっ・・・



    大友と毛利、島津の間で揺れ動き動乱の世を生き残った秋月種実と筑紫広門は九州の真田昌幸といってもいいかもしれません。彼らは最終的に時の権力者から家を存続(広門は彼の死後、息子が再興するという条件でしたが)を許されているので安房守以上の切れ者だと思います。
    ちなみに江戸時代でも秋月家からは他家に養子として継ぎ、上杉鷹山といった名君を輩出しています。

    かっぷめんたべたくなってきました。

    カップ麺といえば「太陽戦士サンレッド」のメダリオ(右の赤い怪人)を思い出します。(分かる人いる?)

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    コメントを書いてくださった皆さんありがとうございました。「通りすがりの侍」という方が特に熱心にコメントしてくれてますね。サンキューガッツ(侍だけに)
    またある程度コメントが溜まったら※返ししていこうと思います。

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    古来より人々は自然の様々な現象について「人間とは別に山には妖怪がいて知らないところで悪さをしているのだ」と解釈していました。鎌鼬や天狗はその最たる例で他にも狐憑きや神隠しなども統合失調症の患者や遭難を上手く昔の人々なりに考えた結果でした。


    昭和・平成の世になり、科学技術が発展した現代では妖怪の仕業とされてきた諸々の事象は科学で説明できるようになりました。結果として人々が空想してきた「妖怪」は消滅し、その役目を終えました。


    では、現代に妖怪の類はないのか?そんなことは無くむしろ人々、小学生や中学生の噂話の間で、あるいはインターネットミームとして現代に息づく新しい妖怪が誕生しています。今回は科学的な解釈とはかけはなれて誕生した現代妖怪の例についてまとめてみました。


    現代妖怪は大まかに分けて3つにわけられます。

    科学の発展による妖怪大絶滅を生き残ったもの→①

    小学生の間で流行した噂がやがて日本全国に広まったもの→②

    2chなどインターネット掲示板で作られたもの→③

    加えて

    商業用に作られた妖怪→④

    も存在します。

    それぞれの妖怪についていずれのパターンか当てはめてみましょう。


    口裂け女 ②
    口裂け女
    現代妖怪では最も有名かもしれません。

    花子さん ② ④
    花子さん
    元々はトイレで暴漢に襲われて殺された少女の霊でしたが、アニメの影響により子供たちを気まぐれで救うヒーロー的存在に。

    座敷童 ①
    座敷童

    てけてけ ②
    てけてけ
    カシマさん・口裂け女と並ぶ有名な妖怪。

    緋色の鳥 ③
    緋色の鳥
    シェアワールドの一つである数多くのSCPにも「妖怪を無理やり科学技術で捕獲してみた」という作品が多く見受けられます。SCPについて分からない方はぐぐってね

    こっくりさん ① ②
    こっくりさん
    ググれ。

    八尺様 ③ ④
    八尺様
    彼女が成人向け漫画にしか登場しないのはどうしてですか、出版社さんお答えください。

    数年前まではとある恐怖画像としても有名で、ネットサーフィン中に「目や口が血まみれのおかっぱの女の子」画像がヒットしトラウマになった方も多くいるんじゃないでしょうか?小学生の時にあの画像に出会って以来、私はトラウマでトラウマで仕方ありません。ついこの前にも席を外した間に友人SによってPCのスクリーンセーバーを例の画像に差し替えるという悪戯を喰らいました(半ギレ)深夜にそのトラップ引っかかってみ?
    泣く(呪怨)

    ねこ ③
    ねこ
    緋色の鳥と同じくSCPの代表的存在。

    人面犬 ②
    人面犬
    実は出現位置が決まっていて、埼玉県の畑トンネルによく出没すると言われています。
    この畑トンネルは売れ始めて間もないAKB48がPVと撮った場所でもあります。(実際に撮影中に機材トラブルなどの心霊現象が起きた)

    赤い手青い手 ②
    DSC01130

    トイレに現れる妖怪。「赤と青どっちがいい?」と聞かれ、赤を選ぶと血まみれに青を選ぶと血を抜かれて殺される。花子さんの亜種か?

    紫鏡 ② ③

    20歳まで覚えていると不幸になる魔法のことば。忘れようとすると逆に記憶してしまうジレンマを利用した妖怪です。

    トンカラトン ④
    トンカラトン

    コトリバコ ③

    赤ちゃんの死体で作った呪いの箱。呪われた相手は家族(特に女子供)の腸がねじれて死ぬ。

    カシマさん ②
    kashimasan
    様々なバリエーションがあるが、「カシマさんの話を聞いた者は3日後にカシマさんに襲われる」という共通点がある。

    目玉親父 ④
    目玉おやじ

    メリーさん ② ③
    メリーさん

    これはメリーさん違いだろ!(というかこっちの方が怖いw)
    ※1990年ごろまで横浜で活動していたとされる老婆の娼婦

    貞子 ④
    貞子


    ジバにゃん(地縛霊) ④
    じばにゃん

    宵闇の妖怪 ④
    ルーミア

    モデルとなった妖怪が見つからなかったので紹介。設定では人間を暗闇に誘い込んで捕食するらしいです。割とホラーな妖怪だった。

    くねくね ③
    くねくね

    理解したものは発狂すると言われる正体不明の妖怪。案山子説が有力。







    ここに挙げたのはほんの一例。


    また、空想の世界へ誘う媒体として都市伝説や月刊ムーに代表するような陰謀論・UFOの類なんてのも、「科学で説明できないものを無理やり都合よく解釈したもの」という意味では形を変えた妖怪だと言えます。馬鹿馬鹿しいと思いつつもUFOや都市伝説の番組を見てしまうのは深層心理の部分で「もしかしたら世界に宇宙人や妖怪がいたらいいなぁ」と思う心があるからでしょうか?

    AIなどが登場しない人間社会が続く限り、社会においても昔と変わらず妖怪は生き続けるでしょう。あるいはAIが到来してもまた、それに関わる妖怪が誕生するのかもしれません。

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    新武将予想で予想した田村月斎と八粕道為が大志では登場するようです。
    一方筑後国は城が1つしかなく秋月家は残念ながら新武将は少なそうです。


    11月28日はニコニコ動画で「信長の野望・大志」で実況プレイが行われるようで興味のある方は是非どうぞ

    では恒例の新武将グラ第3弾

    毛利
    毛利元就

    島津高久
    島津貴久

    政宗
    伊達政宗
    政宗は・・・まぁいつものですね。

    島津
    島津義弘
    木崎原の戦いをイメージしてるんでしょうか?

    道雪
    戸次鑑連
    道雪義父さんの若いころ、雷に打たれる前ですね。


    里見
    里見義尭
    今作は武将個人が持っている特殊能力である「志」が各武将に存在し、固有の志を持っている武将は50人以上存在するそうです。里見義尭もその一人。


    立花
    立花宗茂
    ちょっとスリムになった?武将のイケメン化が進んでいますが宗茂は革新時代からイケメンだったのであんまり違和感ないですね。むしろ戦国立志伝の壮年期グラの方が渋くで素晴らしい。

    吉川
    吉川元春
    長男と三男は残念ながら顔グラが変化しないようです。

    種宗
    伊達稙宗
    種付け爺ちゃん。晴宗も顔グラ変わるんでしょうか?

    東北勢では他に最上義光と鮭延秀綱が顔グラが新しくなってますね。

    新納
    新納忠元
    歌って踊れる薩摩隼人。イケメン化の波には乗れなかったよ・・・

    北条氏照
    (左)北条氏邦?(右)北条氏照
    北条4兄弟。氏照は笛の名手だったので分かりますが、氏邦って武で強いイメージがあったかな?昌幸パパ(矢沢爺ちゃん)に毎度負けまくってるポンコツ武将のイメージ。


    今回は以上です。後は赤井輝子が婆グラで登場するようですよ。

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    「信長の野望・大志」公式生放送見逃しました・・・(最上家プレイのようで)
    でも本ブログで予想した八粕道為が実装されるようです!小野寺家ファンおめでとう(いるのか?)




    さて、今回は織田信長の話
    足利義昭を奉じて上洛した翌年の1570年。信長にとっては幕府の実力者となりイケイケムードの時代でした。
    しかしこの年は信長にとって人生最大のピンチに巻き込まれた年でした。

    というのもこの年は4月23日に改元するですが、この改元に関しては義昭が独断で改元のやりとりを推し進めたようで、朝廷と交渉して決めたい信長とは対立し、信長は義昭を諌める書状を送っています。

    この二人の対立がやがて日本を揺るがす信長包囲網につながっていくのですが、この年はその始まりともいえる朝倉討伐の始まりの年でもありました。織田信長は各大名に号令をかけ上洛命令を促したのですが、上杉や武田、毛利といった大大名はともかく信長とは互角かやや領土が小さかった朝倉義景は上洛要請を拒否しました。

    この行動に関しては当時、越前国で問題になっていた一向一揆のため領国を離れることが、危険だと義景が判断したためでありますが、信長を軽視し織田家への挑発行動を同時に考えていたようです。

    当然、信長は朝倉討伐の兵を挙げます。名目は若狭の反織田派豪族を討つという名目でしたが、近江国北部で侵攻ルートを変え、両軍は金ヶ崎で激突します。
    しかし・・・突如として信長の義弟、浅井長政が裏切り朝倉・浅井の両軍が織田軍を挟み撃ちにします。

    裏切りの理由に関しては通説では父・浅井久政が朝倉家との同盟を優先したため、と言われていましたが近年の研究では信長が同盟国であるはずの浅井家をかつての被官先であった京極家の後見人扱い(要するに京極家の部下)したためでした。浅井家は祖父の亮政の時代から京極家・六角家と次々と下剋上によって領土を拡大してきた家でした。そのため同じく守護大名の斯波家を倒して成り上がった織田家に介入されたことに我慢できなかったと言われています。

    ともかく、信長は長政の裏切りに関して最初はこれを信じませんでした。しかし裏切りが決定的になると、金ヶ崎城に木下秀吉・明智光秀・池田勝正の3名を殿として残し、撤退します。この戦いでは木下秀吉の活躍が目覚ましく、秀吉が出世するきっかけになったと言われます。

    金ヶ崎から逃げ帰った信長一向。すぐに本国に帰りたいところですが、浅井家の裏切りによって近江-美濃ルートが塞がれてしまいました。そこで伊賀から美濃国へのう回路をとりました


    ・・・が、ここで反信長軍の襲撃に遭います。紀伊国の忍者・杉谷善住坊の襲撃を受け、信長は間一髪で死亡という大けがを負います。

    這う這うの体で、帰国した信長ですがまだ5月。この後信長は、徳川に命じて近江国で浅井・朝倉両軍を迎え撃ちます。(姉川の戦い)この戦いでは本多忠勝・榊原康政の奮戦により朝倉軍が敗走し織田・徳川両軍の勝利となりました。

    また7月を過ぎた頃には今まで親信長派であった石山本願寺が【何者かの謀略により】突如として離反し、信長へ刃を向けます。また伊勢国では願正寺が蜂起、長島一向一揆は勃発します。これにより信長は10年にも渡る宗教戦争、石山合戦へと巻き込まれていきます。
    この戦いを期に信長は信長包囲網への対処を余儀なくされ、義昭は最後の最後まで信長を苦しめていくことになります。元亀元年はその序章であり、信長が最も戦のために東奔西走した年でもありました。

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    徳川家臣きってのイケメン武将は誰か?

    最も有名なのは井伊直政。家康からの信任も厚く、衆道の関係もあったのではないかと他の三河武士が妬むほどであった。また豊臣秀吉の母、大政所からも直政の器量や作法を褒める内容の記述が残っており、才色兼備の武将であったのは間違いない。


    では第2のイケメン武将は誰か・・・?と考えると永井直勝の名が上がる。

    主君を失う・前半生

    永井直勝は1563年三河国に生まれた。1561年生まれの井伊直政と年が近く、三河武士の中では家康の小姓仲間として個人的に井伊直政と仲が良かったといわれる。1576年、家康の嫡男・信康に仕えた。しかしそこからわずか3年、信康事件によって主君・信康が自刃してしまう。

    信康事件は近年の研究では、三河家臣のうち浜松派(酒井忠次)と岡崎派(石川数正)の争いが発端とされ、主君を失った直勝は悲しみの余り徳川家を出奔した。

    翌年、仲間の口添えもあり徳川家に復帰したが、かつて出奔経験がある・・・いわゆる経歴にキズのある家臣を家康の下ではあまり出世することができなかったとされる。

    池田輝政との逸話

    天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは池田恒興と一騎打ちの末討ち取り、指揮官の首級を挙げる大手柄を挙げた。この戦いでは直勝は指を切り落とすほどの怪我を負いながらも、敵を打ち倒す奮戦をしたため家康から感状を受け、三河国に1000貫文(3000石から5000石に相当)の加増を受けた。小田原征伐では知行5000石を領した。

    文禄3年(1594年)池田輝政と家康の次女・督姫との間で縁談があり、めでたく婚姻することとなった。その席において家康家臣は式を祝うためはせ参じたのだが、輝政がかつて討ち取った恒興の子であることを知ると、直勝は気を重くした。父の仇が義父の家臣の中にいる・・・直勝は自害を覚悟し、式には白装束で臨んだという。

    さて、輝政にとって一人奇妙な服装の家臣が異様なオーラで佇んでいるのを見て自分の家臣にあの者はだれか調査させた。彼が父を討ち取った永井直勝本人であると分かると、真顔になり直勝の下に歩み寄った。


    池「直勝殿、お主はわが父を討ち取った大功を挙げたとか。さぞ多くの知行を得たことでしょうな」
    直「いえ、私は領地が欲しくて敵将を討ち取るような賤しい人間ではありません。今の知行だって5000石しかもらってませんし・・・」
    池「なんと!5000石しか貰ってないのか!それは家臣のことを考えないひどい主君だ。私なら父を討ち取るような武功を挙げる猛将に10万石与えても惜しくないと思いますがね」


    戦国の世において武士というのは常に戦場で命を落とすことを覚悟しなければならない。身内が討ち取られる恨みと武士としての評価は別というのは武士に限らず現代の社会においても通ずる常識である。10万石クラスの大大名である輝政は、父の戦死をむしろ栄誉として考えることを求められる立場であった。もっといえば10年前の出来事であり、輝政や池田家の人間にとって過去の出来事となりつつあった。しかし未だ敵将を討ち取り思い悩む直勝を見て彼の心残りを解消させるためにこの発言をしたのかもしれない。

    遅咲きの出世

    結局この後、輝政の話を聞いた家康が直勝を加増することはなかったが、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。そもそも永井直勝は出自が下級武士の出で(豪農説もある)、榊原康政と同じく一代で出世した現場叩き上げの人物であった。康政に比べて部隊を指揮する能力が無く、譜代・名族好きな家康からは評価が後回しになってしまったとされる。にも関わらず他の徳川家臣を差し置いて豊臣姓を下賜されたのは輝政の口添えがあったのかもしれない。

    直政とは晩年まで親交が続いた。関ヶ原の戦いの後、外様大名に比べて加増が渋いことを怒る直政に
    「外様は何の保証も信頼もないから領地を与える必要がある。譜代家臣はどのような処遇であっても怒るべきでないのだ」と言って直政をたしなめたという逸話がある。

    ちなみに、関ヶ原の戦いでは
    井伊直政は 箕輪10万石→彦根18万石 の加増を受け
    永井直勝は 5000石→7000石の加増だったという。


    ・・・関ヶ原の戦いでは大きな功は無かったものの、20年仕えてきた直勝に対してこの仕打ち・・・ひどくないでしょうか、出奔か!?やはり出奔の件を恨んでいたのか・・・!?

    しかし、家康の死後は秀忠から三河武士の長老格として厚い信任を受け度々加増されていく。
    大坂の陣で1万7000石に加増されたことを皮切りに翌年は3万2000石、最終的に8万9000石を領して幕府の中枢をなした。

    寛永2年(1626年)63歳で死去。長男の尚政が跡を継ぎ、永井家は幕末まで譜代家臣として存続した。子孫には三島由紀夫や永井荷風らがおり、彼にも文学家の血が流れていたのかもしれない。

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