一条信龍と聞いてあまりピンとくる人はいないでしょう。

 

 


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彼は、武田信玄の弟で武田二十四将にも選ばれる勇将なのですが、信長の野望シリーズに登場したのは創造以降と最近の出来事。信長の野望シリーズを手掛けたコーエーテクモは、武田家に対して熱い思い入れがあることで有名ですが、そんなコーエーでも最近になるまで評価が定まらなかったのですから、不遇の時代を送ってきました。

 

理由としては、同じく信玄の弟である信繁の存在でしょう。

 

 



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個性として、主君をサポートした有能な弟としては信繁と被る所が多く、信長の野望には登場させづらかったのかもしれません。イメージとしては川中島までは信繁が、それ以降は信龍が武田家を支えたと考えても問題ないと思います。

信龍は1539年、武田信虎の末子として生まれました。信玄とは18歳差と、もはや兄弟というよりは親子ぐらい年が離れていました。程なくして信玄が父・信虎を追放し実権を握ると、信龍は信玄の命によって甲斐一条家を継ぎます。

 

この甲斐一条家は平安時代に武田家と共に甲斐に移り住んだ一族で、鎌倉時代すぐに命脈が途絶えていた家でした。信玄は独立性の強かった甲斐の豪族を従えるため、信虎時代に滅ぼされた家を再興させる等、古くからの名門を尊重する政策を行っています。信龍の一条家継承もその一環と言えるでしょう。




 

元服した信龍は、本願寺や松永久秀など畿内の有力者との外交役を任されます。甲府の南西側に領地を持ち、駿河方面の守備も担当しました。西上作戦の途上で信玄が亡くなると遺言によって武田勝頼の後見人として任されます。また、西上作戦の途上で滅ぼした今川領のうち駿河の田中城代も務めました。

 

武田家のターニングポイントである1575年、長篠の戦いにおいても信龍は参戦しています。この時、信龍は佐久間信盛勢相手に奮戦、信長が張り巡らせた二重の柵を破る活躍を見せています。しかし、戦いは武田方の敗北で終わり、武田家の主だった重臣・老臣は討死してしまいます。馬場信房や山県昌景のように、前線にて華々しい活躍をした重臣とは別に、信龍は後衛の守備固め要員としての起用が多かったため、織田方の凶弾を免れたのかもしれません。


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が、武田家の趨勢はどうすることもできず、1582年、信濃の国衆の裏切りを境に織田信忠による甲州征伐が開始されます。同時に徳川家康も駿河から侵攻。信龍は駿河を撤退し、上野城に引き上げます。

 

信龍の最期は2つの説があります。一つは徳川家康の三河勢1万に上野城を包囲され兵300に突撃し玉砕したという説。もう一つは、武田信廉と共に捕らえられ共に屋敷にて斬首されたという説。どちらを取るかは考察する人次第ですが、これまでの武功を見るに前者の可能性が高そうです。

 

いずれにせよ、信龍は40半ばにして亡くなり、「伊達者にして花麗を好む」勇将は乱世の中に消えていきました。