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宗教対立というのはやはり根深いものがあって、傍から見たら実にくだらない理由で対立が起きることも往々にしてあります。

 

キリスト教圏においてはミサに使うパンに種(イースト)を入れるべきか否かで長く対立してきた歴史があります。

 

パンに限らずありとあらゆる発酵食品には酵母を使いますよね。最も人類の歴史に深くかかわってきた酵母はもちろんパンのイースト菌で、これらは17世紀に顕微鏡にて酵母の正体が何であるか明らかにされる前から日常的に用いられてきたものでした。

 

さて、カトリックではミサを始め儀礼には種無しパンを必ず用います。日本人にとって種無しパンはなじみが薄いですが、トルティーヤみたいなものをイメージすれば分かりやすいと思います。

 

キリスト教が生まれる前、ユダヤ教には宗教的に神聖な日・過越祭(モーゼ一行がエジプトを脱出したのを祝う祭)には種無しパンを食べる慣わしがありました。これはユダヤ人がエジプトから脱出する際、パンを膨らませる時間が無かったため、仕方なく酵母を入れないパンを食料としたという伝説に由来するものです(マッツァーと呼ばれるイスラエルの料理)

 


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元をただせば、キリストは熱心なユダヤ教徒だったが、ユダヤの選民思想に反対して「信じる者は救われる」と平等を説いたのがキリスト教の始まりです。だからユダヤ教の風習を受け継ぐ所が非常に多く、最後の晩餐は過越祭の日だったので種無しパンを食べていたのではないか、だから宗教的な儀礼は全て種無しパンを使うべきだというのがカトリックの主張です。

 

 

・わずかに入れただけでパンを膨らませるイーストは罪の象徴である

・コリントの信徒への手紙より抜粋「古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。」

・キリスト最後の晩餐は過越祭の日で種無しパンを食べていた

 

 

 

これに対し、東方正教はイースト入りのパンを儀礼に使います。戒律第一のカトリックに反発し、「最後の晩餐の日が過越祭だという証拠がない」「ユダヤ教でなくキリスト教を信仰しているのだから新約を重視すべきだ」「イーストはEastに通じ、神の国の喩にも繋がるからかえって縁起がいい」という主張です。

 

・最後の晩餐は過越祭ではない

・ルカの福音書より抜粋「神の国を何に喩えようか。パン種に似ている。女がこれをとって三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」

・イースト菌を腐敗の象徴とするのはユダヤ教の考え方だ

 

 

関係ない部外者から見ると一見些細な言い争いかもしれませんが、「どちらでもいい」とばっさり切り捨てていては何も問題は解決しません。そんなこといったら遠足に持っていくおやつに、きのこもたけのこもアルフォートもコアラも、チョコと小麦粉で出来たお菓子じゃないか、適当に一つ持っていけばいいだろうということになります。その点トッポってすげぇよな最後までチョコたっぷりだもん。

 

 

事実、イースト菌論争は、東方正教とカトリックの分裂原因(大シスマ)の一つになりました。他の分裂原因は「使途ペテロの扱い」「フィリオクェ問題(三位一体に関する内容)」と、宗教の根幹に関わってくる話なので、それだけお供え物のパンを重要視していたかに繋がるんですね。

 

 

ですが、20世紀に入り両者はようやく和解の道を探り始めました。2015年にやっと両者のトップが962年ぶりに会談する歴史的な年になりました。このような宗教論争は別にキリスト教だけの世界ではありません。仏教だって日本に無数の宗派や新興宗教(仏教系由来)が存在するのは、その時代時代の宗教家たちが信仰について深く考え、自分なりの主張を続けてきた結果のように思えます。

 

世界平和への道は相手と分かり合うため根気強く対話を続ける、とてつもなく辛く長い道を行くしかないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラーメン。