戦国時代、関東では北条氏の勢力拡大に諸将は苦しんでおり、1560年8月、安房(千葉県)の戦国大名、里見義尭は上杉謙信に救援を求めます。
「上杉家は関東管領の名を受け継ぐもの。謙信殿はその地位にあるのだから何とかしてくれ~」
書状を受け取った謙信は越後(新潟県)の兵8000を率いて相模の北条氏(神奈川県)を討伐するために出陣します。この出来事に各地の諸大名は上杉につくか、北条につくか岐路に立たされました。
上杉もとい越後長尾家の軍事力は圧倒的で、謙信の進行方向にあった上野・武蔵の諸将は全員が上杉に寝返りました。上杉連合軍は10万に膨れ上がり小田原城包囲へと向かいます。
一方で、北条方に靡く者も少なからずいました。
反北条を掲げる太田資正は上杉謙信の依頼を受けて、里見方の正木時茂と北条方の原胤貞の仲介を進めます。原氏は下総の大名・千葉氏の家老であり、ここを味方につければ千葉県が丸々上杉・里見軍になる予定でした。しかし北条方に通じる原胤貞は北条に援軍を送りました。また北条氏とは古くからの盟友関係にある今川氏真も桶狭間の戦い直後ですが若干兵を北条方に送っています。嫁が怖いからね、仕方ないね。
上杉方に味方したのは以下の通り
上杉謙信・上杉憲政
直江景綱、北条高広、柿崎景家、長野業正、由良成繁、宇都宮広綱、佐野昌綱、那須資胤、小山秀綱、小田氏治、佐竹義昭、太田資正、上田朝直、成田長泰、里見義尭、正木時茂
なんという北関東オールスター・・・
北条方は
北条氏康・足利義氏
今川氏真、千葉胤冨
ところが、小田原城は城下町や田畑を丸ごと囲い込んでしまう惣構の構造で、容易に連合軍に打ち破られるほど手薄でもありませんでした。長期戦を強いられた連合軍には厭戦ムードが漂い始めます。
忍城主・成田長泰が、成田家は先祖が源義家にもため口で話せるほどの名門であるのに、謙信に家臣扱いされたことに腹を立て、兵を引き払ったことを皮切りに、佐竹や小田など常陸の諸将は食糧を理由に撤退、上田朝直も突然自身の城に引きこもって北条方に寝返るなど、連合軍は自然消滅。
連合軍には謙信と元・管領(笑)、戦場で犬可愛がってるヤベー奴しかいなくなってしまいました。翌年の4月には連れてきた農民兵の種まきのこともあり、越後に帰還。6月ごろには越後に戻り10か月の関東遠征は終了しました。腹いせに上田朝直の籠城する松山城を落城させたりはしましたが・・・
ぐだぐだの内に終わった関東討伐。しかし北条氏にとっては過度な自信をつけさせるきっかけになりました。「籠城していればそのうち兵は引く」と。この過信が後の豊臣秀吉による小田原征伐の失策へと繋がっていくのです。
それにしても里見義尭は安房という房総半島の先端しか支配していなかった小領主でしたが、彼の一声で一時的に10万の兵を動員できたのは凄いですね。
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