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高橋紹運の玉砕。

 

 

岩屋城の戦いは大きな衝撃を与えました。戦乱の世である以上、しばしば撫で斬りや全滅は起こり得ます。しかし精兵500人以上が全員死ぬまで戦い抜くなど非常に珍しい出来事だったからです。

 

本人達にとっては自らのプライドを世に知らしめす上では譲れないものがあったのでしょう。玉砕という形で終わったことも覚悟の上であり、満足して死んでいったのでしょう。

 

しかし、残された者たちにとっては悲痛に堪えず余りある物がありました。今回はそんなお話。

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岩屋城落城の数日前、紹運はもう長くはもたないと悟り部下の一人・谷川大膳鎮実を使者に立て、子・立花宗茂が籠城する立花山城に向かわせます。

 

宗茂らに報告をした後、大膳は主君に最期を共にしようと岩屋城に戻るのですが、既に岩屋城は既に落城した後で、紹運とその重臣らは一人残らず島津軍の前に玉砕した後でした。

 

さらに不運は重なり、大膳は敵の島津軍に見つかり捕縛されてしまいます。島津の総大将・忠長の前に引き出されます。

 

 

紹運殿は戦の化身のようであった。その武勲は今の日本に二人といないだろう。私は類まれなる名将を殺してしまったようだ、もし敵同士で出会わなければ最高の友になれたであろうに!」


 

 

忠長は、紹運が降伏に応じず討死したこと、立場上彼を救うことができなかったことを悔いており、大膳に対しては「こうなってしまったことは本当に残念に思う、お前は当家に仕える気は無いか?紹運殿が貰っていた俸禄と同じにしよう」と仕官に誘います。忠長にとっては紹運の生き残りを助けることが、敵将の部下を引き抜いて自身の箔をつけようと思ったのか、彼なりの弔いだったのかは分かりません。



 

しかし大膳はこれを断ります。

 

この期に及んで思うことは、主君の最期に遅れ、供にすることが出来なかったこと。もはやどこかに仕官するなど望みはありません。ただ武士の情けで願いたいところが一つある。私は立花殿からの返書を持っているが、中身を見ずに立花城に返していただきたい。それが叶わぬのなら、この場でこの首を刎ねた後、中身をご覧になられたらよろしい

 

忠長は大膳の毅然とした態度に「誠の武士である、その書状を大切にしまって立花城に帰られよ」と感動し、縄を解いたばかりか護衛の足軽をつけて送り返しました。

 










こうして書状を無事、宗茂は大膳の不穏な様子を察知すると彼に声を投げかけます。

 

辛い大役だったがご苦労だった。大膳、まさかお前はこの後死ぬ気では無いだろうな?もし父紹運に報いたい気持ちがあるのなら、ここで腹を切り果てるより、これから私に仕えることが亡き父に対する本当の奉公ではないだろうか。」

 

大膳は、わっと泣き出し宗茂の心遣いに感謝して、立花家の軍学者として仕えることになります。

 


 

古来より、日本では殉死がしばしば起こりました。長年仕えてきた主君にお供することが何よりの奉公と考える武士は多く、「真田丸」でも高梨内記が主君に先立たれ生きがいを失くす者が多かったのでしょう。ただ殿様側から見れば、家のことをよく知る自分の右腕のような存在が自分の後追いするよりも、息子や若い家臣らを指導してくれた方がいいと考える者が多いのが普通でした。だからこそ、家臣に殉死を禁ずるケースが多くあり、紹運も死の直前に、その役目を大膳に与えたのかもしれません。

 

ただ、主君や同僚たちに先立たれただ一人遺された者にとっては生きてその勤めを果たすことは死ぬよりも遥かにつらいことだったようです。同じように大坂の陣で当主や重臣らが多く戦死した小笠原家では、重傷を負いながらもただ一人生き残った側近がいましたが、次の当主や家族に「ここで殉死しても亡き殿の弔いにはならない」と自害をやめるよう説得しますが、数年がたったある日、次の世代への引き継ぎを終えた彼はひっそりと「家族や若様には申し訳ないが、殿や仲間に先立たれたことに耐えられない」と遺書を残し自害してしまいます。

 

大膳は軍学者として立花・高橋両家の若武者に指導する一方で、自らは早々に出家して家督を自らに譲り、亡き主君と仲間への菩提を弔ったそうです。おそらく、生き残ってしまったことに対する後悔と悲しみは同じ思いだったのでしょう。