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「おんな城主直虎」では本能寺の変の黒幕を今川氏真という脚本でドラマが描かれています。

 

父の仇であり、今川家の滅亡のきっかけとなった織田信長。しかし、史実では氏真は父の弔い合戦をすることなく、家臣や諸国の将には「打倒の兵もなく実に頼りのない殿さまだと」と呆れられたりしています。本当のところはどうだったのでしょうか。


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復讐の挙兵をしなかった理由

 
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歴史小説やゲームでは義元の死から大坂の陣までを戦国時代として取り上げることが多いです。氏真はその激動の時代を生き抜いた人物でもあります。家康と同じく彼もある意味戦国時代の主人公でした。


普通10万石クラスの大名で当主が暗殺や討死すると、子や一族の者が敵討ちの兵をあげることが普通でした。宇喜多直家に暗殺された三村家親の子・元親や、父の仇をとるためだけに家康の命令を無視してまで城攻めを開始した水野勝成など、その例は枚挙に暇がありません。父・義元が討たれても、氏真がすぐに復讐に行かなかったのは氏真本人が腰抜けだったからでしょうか?

 

挙兵する「余力が無かった」というのが実情のところです。桶狭間の戦いでは義元は25000の兵を率いています。一般的に戦国時代では徴兵を行う際、100石につき3人から4人の兵を動員することが出来ました。1万石の大名では300人~400人以上の兵を動員すると、農民への負担が大きく領国は衰退につながります。

 

今川家は当時、三河・駿河・遠江の3か国を領有していました。太閤検地のデータですがその3か国合わせると70万石~80万石になり、今川家にとって25000という数はフルパワーでの出陣でした。ワンピースでいうならギア4連打、ドラゴンボールなら20倍界王拳使ったような状態。そのまま連戦することは難しい状態でした。

 

加えて、桶狭間の敗戦と諸将の討死により今川領全土が混乱状態に陥ります。従属国衆の井伊家など当主を失った家も多く、再度今川家が挙兵の号令をかけても拒否する家が続出するのは火を見るより明らかでした。

 

さらに不幸は続き、動揺状態で支配力が弱くなった三河に、旧領主で氏真の重臣だった松平元康(後の家康)が独立。三河の大部分を失ってしまい支持基盤も大きく揺らいでしまうことになります。氏真は父とその側近の死、信頼していた部下の裏切り、領内の疲弊という三重苦にいきなり直面することになり、父の敵討ちどころではなかったというのが真相のようです。そりゃ蹴鞠で現実逃避するわな・・・

 




2流転

 




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理想(↑)と現実(↓)




しばらくは尼将軍・寿桂尼が存命であったため、今川家は依然と勢力を保ち続けました。しかし桶狭間から9年後、寿桂尼の死をきっかけに、今川家は徳川家康と武田信玄の侵攻にあい滅亡します。信玄の攻撃に今川軍は成すすべもなく瓦解し、駿府城を放棄して、家臣・朝比奈氏の居城掛川城に籠城します。

 

侵攻してきた徳川家康との間で籠城戦となりますが、この戦いは6か月にもわたりました。簡単に落城しなかったのは、城主・朝比奈泰朝の采配もあったでしょうが、氏真本人の当主としての意地を見せるべきと考えていたのでしょう。

 

膠着状況の中、信玄が突如徳川領の遠江へ侵攻する動きを見せます。信玄は家康と氏真が共倒れすることを目論み、駿河・遠江・三河のすべてを漁夫の利で手に入れようと画策していたのです。

 







―このままじゃれ合って死を待つわけにはいかない。






 

家康は氏真の義父で今川家への援軍として、武田軍と戦っていた氏康に交渉をかけ、徳川・今川・北条の間で武田家包囲網を結成。「氏真と家臣の助命を引き換えに、武田家の脅威が去るまで、今川領を徳川・北条の間で分割統治する」という名目で氏真を和睦します。

 

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氏真にとって最大のターニングポイントだった掛川城の戦い。



開城後、氏真は妻の実家・北条家に転がり込み、屋敷に居候する身分となります。氏康は快く迎え入れる一方で、2人の間に子がいないことを知ると、孫の国王丸を今川家の養子に送り込みます。また、氏真が仲介人となって越相同盟を成立させるなど、外交キーパーソンとして活躍します。


 

氏康の死後、北条家は再び武田家と同盟する道を選びました。この時、北条家にとって邪魔者となった氏真は後を継いだ氏政に命を狙われたらしく、北条家を去り再び流転の日々を送ります。

 

 

3社長というより営業マンタイプ!?

 


早川

正室・早川殿の人物伝はこちらを参照



氏真は、旧臣・家康の下に転がり込みます。今川家を裏切り、一度は刃を向けた間柄でしたが、家康もかつての主君を見捨てる訳にも行かず、氏真一行を迎え入れます。

 

家康も氏真の面子を潰さぬよう、かなり意識していたようで、家臣には最上級のもてなしをするよう命じたり、(名ばかりですが)城主に据えたり、信長に「駿河の支配を氏真殿に任せたい」と交渉したりしています。

 

とはいえ、今川旧臣はほとんど徳川か武田に吸収され、統治能力も持っていなかった氏真も、自身の立場を分かっていたようです。任された城主の職を半年で辞した氏真は残された家臣団を解体し、家康に渡しています。また掛川城まで味方した旧臣の再就職の斡旋に奔走するなど、最後の当主として行動します。

 

氏真が城主の座を去ってからの動きは不明ですが、「家忠日記」に氏真が頻繁に家康の下を訪れる様子が記載されており、浜松と京を往復していたことが分かります。

 

それからは趣味の道一筋に生きるようになります。父・義元は氏真に英才教育を施しており、歌道・蹴鞠・武芸と文化人の能力は一流で、その後も京の公家衆とコネクションを持ち続けています。家康からしたら、作法もへったくれもない三河武士では朝廷の機嫌をとるのは難しく、公家にコネのある、もし
くはコネを作れる氏真の存在は渡りに船でした。






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蹴鞠=現代のゴルフみたいなものと考えると・・・?


 

井伊直政が役職に就くまで、家康が公家と面会する際は氏真を連れて行ったようです。近衛前久との会食では氏真が同行したという記録が残っています。

 

氏真は公家の中でも有力者、山科言継とその子・言経と交友を深くし秀次事件で言経が失脚した際には、言経に経済的支援をしています。

 

1590年ごろから1600年ごろまで氏真の行動が追いづらくなり、秀次事件で干された公家らを支援し、彼らの朝廷復帰後家康の征夷大将軍就任の口添えに動いていたことを考えると、

 



氏真は家康を将軍推薦交渉の大役を任されていた




 

のではないでしょうか?記録に残っていないことなので、真相は分かりませんが大変ロマンのある説だと思います。

 

1611年、孫の直房に家督を譲り、家康の子秀忠に出仕。家康の招きで品川に屋敷を構えます。氏真は公家応対の作法をまとめており、彼の子孫は代々朝廷の折衝役を任される家となります。忠臣蔵で有名な吉良上野介も氏真の子孫です。

 

1613年、長年連れ添った妻と死別。それからは火の消えたように元気を亡くしていったといい、1615年の年末に家族に看取られながら亡くなります。享年77。大坂の陣も終わり、天下泰平の世が既に訪れていました。

 

 














戦国大名としては生き残ることができませんでしたが、江戸時代の名家として生まれ変わった今川家。大名としてのカリスマ、卓越した政治手腕には恵まれませんでしたが、公家に認められる才覚と作法、長期の籠城戦に耐えるメンタルなど、「無能」と評価するには難しい人物です。

 

冒頭の信長の恨みの件。信長は上総守を名乗っていた時期がありましたが、奇しくも氏真も上総介の役職を朝廷から(正式に)授かっていました。仇敵のはずの信長の前で蹴鞠を披露して、諸将の失笑を買うなどした逸話が残っていますが、彼の胸中は定かではありません。

 

間違いなく言えるのは、氏真は信長より長く生きたということ。そして宿敵より長く生きることが最大の復讐になり得ることです。

 

 

 















天下一蹴 今川氏真無用剣 (GAノベル)
蝸牛 くも
SBクリエイティブ
2019-01-24