祝!大河出演


朝倉

1.朝倉家

 

朝倉義景は1533年、先代当主朝倉孝景の子として生まれました。出自については細かい資料が無く、義景の花押は歴代の朝倉家当主のものと異なることから、六角家からの養子だったのではないかという説がありますが、詳しいことは分かりません。


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16歳で父の後を継いで当主になると、延景を名乗りました。朝倉氏は応仁の乱に乗じて勢力を拡大し、越前の守護大名だった斯波氏を追放して戦国大名になった家です。
戦国初期から一国を統一し、独自の分国法を定め、周辺隣国にも攻勢をかけたことから戦国大名としては有数の実力者です。その中でも一族の朝倉宗滴は日本に覇を唱える歴戦の戦国武将で、朝倉草創期の生き残りでありました。それ故に義景が当主になってすぐは宗滴の威光により安定的な政治活動を送ることができました。





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1555年、宗滴の死によって義景は自ら政務をふるえるようになります。戦国時代、越前から加賀にかけて一向宗が大きな力を持っていました。周辺大名にとってはとてつもない脅威であり、富樫氏のように一向一揆によって滅亡した家もあります。勢力拡大を狙う朝倉家は、一向一揆の影響力がなく、かつ物資の集積地であった小浜の地を支配するため、若狭へ拡大政策を始めます。その一環として、六角家の内紛に介入して積極的に近江の情勢に口出ししたり、若狭守護の武田氏に謀反をおこした粟屋氏を攻めるなど対外政策を積極的に行っています。1565年に朝倉氏の威光を頼って足利義昭がやってくると、義昭は義景に自らを奉じて上洛するよう要請します。








義昭



 

ところが、義景は義昭の依頼を受けながらも、国内の一向一揆の対処に追われたり、待望の嫡男が夭逝したりして、それどころではありませんでした。それどころか正室まで病死してしまい、義景は徐々に政治への色を出さなくなっていきます。このままでは自分の力にならないと感じた義昭は、そのほか新興勢力のうち優秀だった織田信長を頼り、朝倉家に転がってきた天下人へのチャンスはたやすく消えてしまいました。

 

 

2.信長

 


信長が義昭を奉じて上洛することには対若狭侵攻はほぼほぼ最終段階にあり、若狭武田守護の若狭武田氏を軟禁しています。しかしこの時点で、義景は政務を一族の景鏡や景健に任せて、自らは遊びに興じていたとされます。


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使えそうであんまり強くないコンビ

 

しかし若狭介入政策を放置し続けたことが、朝倉家の運命を変えることになりました。若狭・越前の地は信長にとって本拠地の美濃と京都を行き来する際に、大きな不安要素となっていました。突如朝倉家が襲ってくるかもしれないことを恐れた信長は、畿内の諸大名に加えて、朝倉氏にも上洛命令をつきつけました。

 

義景にとってはたかだか10年程度で急成長した新参になぜ頭を下げないのかというプライドがありました。ここら辺は境界の地で反復横跳びし続けた、真田昌幸や筑紫広門とは異なる考え方をしています。また、越前は尚も一向一揆の存在があり、義景がうかつに越前の地を離れることは危険なことでした。さらに、このころ4人目の妻として小少将と呼ばれる女性を側室に迎えていました。朝倉家の資料には2人の関係を唐の玄宗と楊貴妃に例えており、美女に現を抜かして淫蕩にふけった生活を送っていたのも拍車をかけました。

 






 

3.戦乱

 

義景の上洛拒否が信長にとって越前出兵の口実を与えるきっかけとなってしまいます。信長は尚も若狭の地で朝倉氏と戦っていた粟屋勝久を支援する名目で若狭に兵を進め、金ヶ崎城を攻撃。若狭を抑えていた朝倉景紀を破ります。しかし、義景は景紀に援軍をよこさず、降伏した部下を冷遇したため一門衆の間でも義景に愛想がつかすものが増えていきます。


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若狭武田氏と一度は対立した彼ですが、最終的に主君の助命をしたりしているので、信長の介入は不本意だったのかも
 



金ヶ崎の戦いは、朝倉家と盟友関係にあった浅井長政の乱入により朝倉軍の勝利となります。しかし、信長はもちろん織田家の有力諸将をだれ一人捕まえることができず、信長に復活のチャンスを与えることになってしまいます。余談ですが信長は朽木元綱が治める朽木谷を通って逃亡しました。近年の調査により、朝倉家は朽木家にも影響力を与えており、実質的な同盟関係だったことが分かっています。朽木元綱の裏切りと彼を放置したことも義景にとっては自らの首を絞めることになってしまいました。



 

京に戻って立て直した信長は再び近江・姉川にて浅井・朝倉連合軍と激突します(姉川の戦い)。しかし運命を決める一戦にも、義景は小少将と共に屋敷に引きこもっており、朝倉景健が代理を務めるありさまでした。確かに宗滴の時代から、朝倉家は当主が出陣すると不吉であるというジングスがありました。しかし、時代は小規模な戦から大規模な組織戦の時代に代わっており、浅井も織田も徳川も当主本人が戦っているにもかかわらず、当主不在の朝倉家は思う様に士気があがらず、榊原康政の奇襲戦法を受けて敗走します。この戦いで、朝倉家は朝倉家随一の猛将・真柄直隆を失い、浅井家に至っては家老の遠藤直経が戦死します。また浅井の城も多くが落とされ、戦略的に決断を迫られることになります。


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真柄はクレヨンしんちゃんの映画にも登場しました。
 



4.反攻

 

ここにきて、義景は朝倉家の危機的状況に気づきます(義景もやるときはやるんだ!(*^^*))。本願寺の挙兵に乗じて、義景も浅井長政と共に近江坂本に侵攻、織田家の重臣・森可成を討ち取ります。さらに大津を落とした両軍は山科まで進軍します。醍醐~大津間は信長にとって頸動脈でした。慌てて山科・大津を取り戻しに来た信長に対して、義景は比叡山に籠城します。

 


信長


この時点で信長は、顕如が起こした各所での一向一揆の鎮圧にほぼ全戦力を割かれており、信長は比叡山に「味方でなくともせめて中立的立場にしてくれ」という手紙を送っていますがこれを無視(信長もここまでなんだ!(*^^*))。その後も信長は浅井・朝倉・比叡山に関して停戦あるいは戦場を移す提案を持ち掛けていますがことごとく無視されます。進退窮まった信長は最後の切り札として、天皇に和睦の仲介にたってもらいます(そんな(*^^*))。和睦の場で信長は義景に土下座し、


「天下は朝倉殿が治めるのがよかろう」


とまで言っているので、信長が相当追い詰められていたことが伺えます。


 

その後も、義景は本願寺と連絡をとりながら、度々近江にちょっかいを出し続けました。しかし、信長に決定打を与えることはできず、信長包囲網にとって最終兵器な存在だった信玄の西上作戦も途上に終わり、急速に信長有利な状況へと転がり始めます。ことによると、信玄は西上作戦に際し、義景に出兵を求める手紙を送りましたが、義景は積雪を理由にこれを拒否し、信玄は義景に恨み言を述べながら死んでいったとされます。義景のニート力で日本がヤバい。結局、前波吉継や魚住景固といった有力家臣が次々と朝倉家を去っていきました。

 

 

5.終焉

1573年、信長は自身の包囲網の一連の黒幕だった足利義昭を追放します。これにより信長包囲網は瓦解、各個撃破されていくことになります。同年8月、小谷城を包囲。その勢いで信長軍は浅井家の援護に来た朝倉軍を追撃し始めます(刀根坂の戦い)。この戦いでは、信長が追撃部隊の先頭で指揮をとっており、気合の入り方が違いました。重臣が次々と朝倉家を去り、家中統一もままならないまま織田方の内部工作も受けていた朝倉軍2万はことごとく討ち取られていきます。また、総大将格だった山崎吉家や朝倉軍の中枢だった斎藤龍興も討死します。

 

 

本拠地一乗谷に戻ってきた者はいませんでした。義景は残った一族と共に、一乗谷を放棄し山里へ逃れますが、景健や景鏡といった朝倉家の重臣らも織田方に寝返っており、景鏡の追手によって住居を包囲されついに自刃します。これにより11代続いた朝倉家は滅亡しました。享年41





 

義景は自分の切腹を条件に、小少将や彼女との子、愛王丸の助命をとりつけていました。また、義景の一部の近習らも彼女らの世話として義景に殉じませんでした。しかし、この約束は反故にされ、彼らは織田軍の護送中に殺される所となります。

朝倉家を裏切った諸将でしたが、魚住景固ら文官衆は、同じく元朝倉家臣である冨田長繁の叛乱によってほとんどが滅亡。朝倉景鏡や景健らも信長に強大な一向一揆対処を任され、討死する最期を迎えます。尚も数万の勢力を保った一向一揆も信長軍により殲滅され、室町時代から続いた越前の栄華は灰燼に帰し、朝倉家の痕跡や旧臣は赤座直家といったごく一部を除いて歴史の闇へと消え去るのです。







夏草や...