1: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:15:30 ID:9jR
北条雑魚すぎッ
no title


引用:【沼田城】矢沢頼綱とかいう北条絶対撃退マン【絶対守る!】
4: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:17:13 ID:m86
北条軍は元々そんなに強くない
沼田という土地自体が攻めにくい

5: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:18:42 ID:E1u
あそこ猿の集団やろ

7: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:24:34 ID:CBx
信長の野望ではもう少し評価されてもええとは思う

10: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:35:27 ID:9jR
ちな最近の能力
no title

11: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:38:06 ID:CBx
>>10
う~ん微妙
覇王伝辺りでも戦闘70ちょいはあった気がするけど弱くなってる?

12: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:41:03 ID:9jR
>>11
コーエーは真田幸隆直系しか優遇しないのかな

13: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:42:29 ID:9jR
真田幸隆直系以外の能力低すぎやろ、どうみても

14: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:43:09 ID:CBx
まぁ確かに幸村昌幸の補正が毎回おかしいからそのわりを食ってる可能性はある

15: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:44:40 ID:9jR
>>14
なんで真田幸隆の弟なのに評価低いのかは謎やな

17: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:46:28 ID:CBx
信之も微妙やな

18: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)18:47:27 ID:9jR
>>17
信之は妥当やろ

23: 名無しさん@おーぷん 2018/09/03(月)21:26:07 ID:AYX
矢沢三十郎はもっとヘタレ
矢沢頼綱は昌幸の叔父にあたります。若いころは出家して京都で修行していましたが、すぐに僧職を辞して、実家に帰ったようです。矢沢家はかつて諏訪一族として真田家とは敵対関係にありましたが、跡継ぎがいなくなったことで、頼綱が改姓することでそのわだかまりを解消しました。

その後は、主家の海野家(この頃は真田家も矢沢家も海野氏の家臣身分でした)に従うものの天文10年の海野平の戦いで敗北し、主家が滅亡兄も上野国に亡命という憂き目にあいます。頼綱は周辺の有力大名だった村上義清と武田信虎の間で行き来しますが、幸隆が信濃に復帰し武田家に仕えると、幸隆の調略に連動して村上氏を攻撃し、村上一族の山田国政と吾妻清綱を討ち取ります。

矢沢家はそれから、真田家とは別の形で武田の家臣となりますが、何かと真田家とは連絡を取り合いながら行動し、長篠の戦いで真田家当主・信綱が戦死すると、後を継いだ甥の昌幸に従います。

1575年から頼綱は上野国沼田城の攻城指揮を任され、天正8年沼田領が真田のものとなると、沼田城代に命じられます。武田家滅亡は真田家の家臣筋でありながら独自に外交を行い、上杉家とは幾度か交渉を行っている記録が見つかっています(署名は息子の頼康宛)。

天正13年(1585)からは関東統一を目指す北条氏が沼田城に攻め寄せます。北条氏邦率いる2万の兵が沼田城を攻撃しますが、頼綱は野戦・ゲリラ戦・籠城戦と巧みに兵を使いこなし、北条軍と互角の勝負を繰り広げます。

この戦いでは、彼が愛用している槍・小松明に火がともり敵兵を驚愕させたという伝説が残っています。


埒が明かない北条軍は外交によって降伏させようと試みますが、頼綱は北条軍からの使者をことごとく突き殺すこと3回。使者を殺す=交渉不可の宣戦布告の当時(現代でもそうですが)では絶対に沼田城を守り切る方策があるクレイジーなジジイと化していました。信玄が子供だった時代から戦場に出陣し続けた頼綱にとっては北条軍なぞ数が大きいだけの雑兵集団にしか見えなかったのかもしれませんね。

齢70に近くなった頼綱はさすがに引退、子の頼康に家督を譲ると、北条とは主家・豊臣秀吉との仲介を受けて講和。その後は活躍した記録は見られませんが、慶長2年(1597)まで生きたようです。
大河ドラマでは最後の最後まで戦争だいすき爺という強烈な個性を持ったキャラクターでしたが・・・史実は果たして・・・?