ニワカ戦国オタが語る雑記

不定期更新 気になった武将や人物について取り上げたりおんj中心にまとめたりします

妻子を人質や政略結婚の交渉材料に扱うというのは戦国時代では至極普通の事、結婚生活が上手くいくかどうかなんて結婚後お互いが思謂わなければ始まらない時代である。たまーに女城主もいるが当主の男が病弱や子供のため、正室が領内統治を代わりに行うというケースがほとんどである。

だが、秀吉の妻「ねね」と利家の妻「まつ」に関してはその不文律は存在しない。この2組の夫婦は恋愛結婚で結ばれ、かかあ天下であり、それが下で大成したという共通点がある。有名人を取り上げようシリーズ第4弾、他ブログでもよく話題になる芳春院を政治的な観点から取り上げようと思う。

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2月14日って何の日だろう・・・?







































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宇喜多直家の命日です!
宇喜多直家と言えば

・暗殺おじさん
・弟が帷子をつけるほど恐れる男
・茶に毒を仕込む男
・岡山の県北の糞
・娘ファンネル
・ケネディ暗殺ばりの狙撃戦法

と、なんでもありの方法で備洲三国を手に入れた男です。
戦国三大梟雄に数えられる人物ですが、有名人シリーズ第三弾・宇喜多直家について解説します。
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不謹慎な話ですが、入社式直前・新社会人を前にして内定先の会社が倒産して内定取り消し!4月から無職へ!という話が極々稀にあります。

去年は「てる●くらぶ」の話題が有名ですが、この話には続きがあります。内定取り消しになった学生たちに手を差し伸べた企業がいくつかあったようで、その中にア●ィーレ法律事務所の名前がありました。CMでもたまにやってる有名企業に声がかかって無事内定・・・といえば美談にもなるのですが、その年に●ディーレはいろいろあって業務停止の憂き目に遭います。

まさか藁にもすがる思いで内定した2社がわずか1年で潰れる・・・なんてなかなか聞いたことが無い話。しかも理不尽な理由で。



こんなん芸人のネタにできるレベル。「激レアさんを連れてきた」に間違いなくオファーがかかります。



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「内定を取り消されて、手を差し伸べた会社も潰れてしまった男がいたんですよ~」
やっちまったなぁ!」





こういった悲劇を経験した人間は昔から32万石の大大名藤堂高虎もわずか3年で4つの仕官先(あるいは剃りが会わなかったり滅びたりという苦難に遭いました。有名人物にスポットを当てようシリーズ第二弾、今回は藤堂高虎について解説します。


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久しぶりの更新です。3月までは引っ越しなど身の回りがばたばたしていて思うように更新できず申し訳ありません。ここ1週間はなんとか記事を書き溜めておきたいなと思ってたり思ってなかったり・・・

最近更新してなかったこともあって、閲覧者数が・・・
ということで今回からしばらくはブログ訪問者数アップを狙って有名どころの人物を取り上げていこうと思います。
第一弾は大河ドラマの舞台である薩摩の基礎を作った島津忠恒を取り上げます。


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①次男坊の次男坊に生まれて

戦国時代に限らず、家督を継ぐ人間は長男の家系の正妻の長子というのが相場であります。本来は分家筋に当たる次男以降の家、しかもその長男でない人間が50万石を超える大大名の家を継ぐなんて夢物語であることを考えると島津忠恒は非常に幸運の星の下に生まれたのかもしれません。



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島津四兄弟の長男にして第16代島津家当主・島津義久には男子がいませんでした。そこで養子として自身の愛娘・亀寿を一族の中から優秀なん人物と婚姻させ、婿養子という形で島津家の家督を譲ろうとしていたようです。
始めは島津義弘の長男・久保が次の当主と考えられていましたが、久保は朝鮮にて病没してしまい、島津家は再び後継者を誰にするか紛糾したようです。

忠恒は「どうせ当主は優秀な兄が継ぐのだから、勉学に武芸に頑張っても無駄」と日々、蹴鞠と酒に現を抜かす毎日を送っていたようで、父・義弘から酒と女遊びを慎むよう注意を受けた手紙などが残っています。ここらへんはいわゆる無能と称される「今川氏真」や「斎藤龍興」と被るイメージもあるのですが、いざ当主の話が転がり込んでくると、忠恒は日々の生活を改めるだけでなく寡兵を率いて明軍の大軍を打ち破る活躍を見せています。(もっとも活躍の描写を見るに、実際には「俺だってやればできるんだー!(迫真)」大将突撃を敢行し、それに驚いた家臣たちのフォローもあって明軍を打ち破ったので、本人に弓取の才能があったかはいささか疑問があります。)


②庄内の乱

慶長の役が終わり、帰国した忠恒に待っていたのは・・・










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慶長4年(1599年)突如として忠恒は家老の伊集院忠棟を殺害してしまいます。なぜこのような凶行を及んだのかというと、次期当主を決める話し合いについて忠棟は日頃の行いを理由に猛反対したからだと言われています。そりゃ戦場でも蹴鞠と酒しかしない放蕩息子を当主に推薦したくない気持ちはもっともな話。が、それを逆恨みして斬殺する忠恒もどうなのという話。しかしこの一大名家のスキャンダルは関ヶ原に繋がる大きな事件へと発展していきます。

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伊集院家は九州征伐以降、豊臣秀吉に重宝され陪臣としては破格の8万石の領地を与えられ大名格として扱われていました。秀吉にとっては他大名の有力な家臣を引き抜いて大名を弱体化させたいという考えもあり、この例は他の大名家でも見られました。(黒田家の後藤又兵衛、大友家の立花宗茂、上杉家の直江兼続、徳川家の徳川三傑など)また、慶長の役でも兵站の管理を巡って忠棟は島津家中からもヘイトを持たれていたようである意味この事件は忠恒一人の凶行では無く、大名命令の粛清のようなものでした。

しかし豊臣政権からしたら取次対応をしていた忠棟を殺すなど政権に対する反逆行為。忠恒は謹慎処分になり下手をすれば切腹の危機まで追い込まれますが、徳川家康は忠恒をおとがめなしとして粛清行為を支持します。

実権争いをしていた家康にとっては島津家に恩を売ることで支持票を集め、他の五奉行五大老に対するけん制をしたい案件でした。事実、政敵の石田三成は忠恒の行為を厳しく非難しており、忠恒の謹慎を解くことで九州の石田派の大名ににらみを利かせてもらおうという考えがあったように思えます。


父を殺された忠真や伊集院一族はこの事件に対して徹底抗戦で対抗し、島津宗家もこれを奸臣滅ぼす好機として兵を進め島津最大の内乱「庄内の乱」が始まります。伊集院軍2万に対して島津軍10万。普通なら島津軍が圧勝して終わるだろうと思われますが、3か月たっても6か月たっても戦は収まるどころか悪化するばかりでした。


最終戦争


なぜこの戦いが長引いたのか?

まず、伊集院氏の領地は多数の支城が本城を守るように配置されており、力攻めによる攻勢が不可能だった。

第二に、兵数の発表は島津宗家が改竄したものであり、実際には伊集院5000~8000に対して島津は3万程度だった。どちらにせよ島津領内が動員できる最大兵数に等しかった。

第三に島津軍が包囲殲滅を意識した兵糧戦に持ち込んだため、かえって伊集院軍の士気を高める結果になってしまった。

最後に、伊東祐兵をはじめとした伊集院を陰から支援した大名がいた。


と、悪条件に悪条件が重なり、この影響で島津領内は荒廃してしまいます。
結局徳川家康の介入より和解が成立し、この戦いは集結しました。


③その男、情報通につき

関ヶ原の戦い。

庄内の乱の借りから島津家は東軍に与すると事前に約束していました。
しかし、終わってみると島津家は「西軍」として裁かれる立場になってしまいました。

事の詳細を聞いても

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とだけ言って部下の死に悲しみに暮れる満身創痍の親父。




詳しい詳細は島津の退き口のエピソードが非常に有名なのでここで語る必要はないでしょう。とにかく家督を相続してわずか数年、やっと内乱を鎮圧して翌年の忠恒は中央政府へ反逆したリーダーの身として、厳しい戦後処理を切り抜けなければいけませんでした。












西軍大名が軒並み改易・減封の憂き目に遭う中で、忠恒は弁解のために江戸に向かうことを拒否し、「庄内の乱で国内が不安定だから薩摩を離れることができない。審議のために内府様本人が来てほしい」と開き直りました。数年に渡る幕府の要請を拒否し続けました。日本全ての大名について賞罰を決めるには時間がかかり、島津ごときにかまってる暇は無いだろう。そう忠恒は考えました。6年の交渉によって

・家康の偏諱から「家」久と改名する
・薩摩に逃亡していた宇喜多秀家を引き渡す

だけの条件で関ヶ原の戦後処理を切り抜けました。西軍に大きく与しながら領地を減らされなかった大名家は島津家が唯一の例でした。

これだけでなく大坂の陣に参加しなかったことを幕府に咎められると、「この度の戦を、人々は真田日本一の兵と持て囃している。ならば、その真田を打ち破った井伊の若侍は日本一の大手柄だろう」と大いに幕僚たちを褒め称えて機嫌を取ったと言われます。

このような政治的センスがあったからこそ忠恒は関ヶ原の動乱を生き抜くことができたのかもしれません。

。。。ですが、忠恒は必ずしもいい話ばっかりだったわけではなく・・・と言いたいところですが話が長くなってしまうので続きは次回で!



なんや面白いやんけ!

赤山先生の切腹から、西郷家の日常パートをちょっと描き、斉彬と斉興の口論とノンストップに話が進んだ良回でした。口論の末ロシアンルーレット始めたのは流石に「な訳ねーだろw」と笑いましたが。

本作に限らず島津斉彬は幕末の名藩主として描かれる場合が多いですが、薩摩藩にとっては必ずしも素晴らしい藩主という訳でも無かったようです。

というのは、この時代薩摩藩は膨大な借金があり、財政の立て直しを巡って当主斉興と対立していたからです。
当時の薩摩藩は500万両の借金がありました。当時の藩収入は年間12万両、借金の年間利息だけで80万両!というか500万両という数字は幕府の収入すら上回っており、今の日本じゃないレベルで首が回らない状況でした。

この原因は斉彬の曽祖父である重豪の豪遊に原因がありました。
重豪は天文学の研究や蘭学三昧、医師養成、武芸奨励など近代的な善政を敷いた面もあるのですが、その費用が重なりに重なって薩摩藩の財政悪化を招いてしまいました。この立て直しに踏み切ったのが斉興と調所広郷の2人でした。調所は薩摩藩伝家の宝刀である密貿易から奄美諸島住民に対する破滅的な締め付け・収奪、挙句の果てには商人への借金返済を250年分割払い(利息無し)に取り決めるなど、なりふり構わない方法で薩摩藩の財政を立て直します。密貿易に関しても借金のある商人たちに利権を喫わせることで債権主にもメリットがあるように気を使っていました。(当然庶民の生活は非常に苦しいものとなりました。改革に犠牲はつきものなのだ…)

広郷の努力によって斉彬が就任するころには藩は200万両の貯蓄を生み出しており、これが幕末における薩摩の飛躍に繋がりました。斉彬と斉興の権力闘争は斉彬が借金の原因となった重豪の気風を強く受け継いでおり、薩摩がまた借金まみれになってしまうかもしれない、そういった不安から斉興や広郷は次期藩主を斉彬ではなく次男の久光にしようと考えたようです。

3話から4話にわたって描かれたお由羅騒動は結果的に斉彬が密貿易を幕府に捨て身の抗議する(広郷は斉興へ咎が及ぶことを危惧して自身が責任をとって自害する)ことで、斉彬側が勝利しました。

ですが、斉興の危惧した通り斉彬は欧州の学問や技術を取り入れ重豪の改革を引き継いだため、藩の財政は再び悪化し、領民に対する税率もかえって引き上げられてしまったという負の一面もありました。
斉興の広郷のステレオタイプな描き方は明治維新を成し遂げた西郷や大久保から見た脚色された人物像なのかもしれません。とはいえ、西郷は後に調所の財政改革を評価しているそうですが…






次回は・・・うん、駄目みたいですね(諦観)

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